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“プーチン政権に絶望”し、23時間泳いで日本に漂着 北方領土在住「アニメ好きロシア人」の今後

 ロシア(ソ連)に実効支配されて77年が経過した北方領土。特にソ連崩壊後は資本投下によって急速に“ロシア化”が進み、ロシア最大級の水産加工場が色丹島に開設されるなど経済発展もめざましく、「日本の領土の痕跡」は次々と消されつつある。だが、そんな状況下にある北方領土から日本へ“亡命”しようとしたロシア人がいた。1990年に日本人で初めて北方領土に上陸取材した報道写真家・山本皓一氏の写真とともにレポートする。(NEWSポストセブン2022/11/2)

 国内有数の水揚げ量を誇るサケ、広大な牧場で生産される牛乳などで知られる北海道・標津町。この町に不審な外国人男性が出没したのは2021年8月のことだった。上下スポーツウェア姿で帽子をかぶり、スニーカーを履き、リュックサックを背負っていた。彼は通りがかりの住人に片言の日本語でこう訴えたという。

「クナシリ、オヨイデ……。パスポート、ナイ……」

 標津町は、ロシアが実効支配する北方領土国後島から海を挟んでわずか20キロ強の距離にあるが、もちろん航路はなく、多くの外国人が観光に訪れるような町でもない。住民の通報を受け、男性はヘリコプターで札幌出入国在留管理局に移送された。取り調べの結果、男性は国後島南部の泊村に暮らす38歳のワースフェニックス・ノカルド氏(本名はウラジミール・メゼンツェフ)と判明した。

 係官らが驚かされたのはその“渡航手段”だ。何とウエットスーツを着込み、23時間かけて本当に“オヨイデ”、対岸の標津に上陸したのだった。

 ノカルド氏は国後島から最短距離(約16キロ)にある野付半島を目指したものの、背泳ぎで進むうちに方向感覚を失い、潮に流された末に標津へ漂着したとみられる。国後島ではあらかじめ日本円の現金3万円を調達しており、上陸後にコンビニでウェアや帽子、食料などを購入していた。

 夏場とはいえ、周辺海域の水温は約15度。海流は速く、サメも生息している。しかもロシアの巡視艇が警戒にあたる海域を20キロ以上も泳ぎ切ったのは奇跡にも思えるが、ノカルド氏は“命懸けの渡航”の動機を「プーチン政権に絶望したから」と説明したとされる。

もっとも、これはウクライナ戦争が勃発する前の話である。

 突然の亡命希望者の扱いに苦慮したのは日本政府だった。何しろノカルド氏の行動は、《「日本固有の領土」である国後島から北海道への純然たる国内移動》と見なされるからだ。

 ノカルド氏の難民申請は不認定となったものの、不服を申し立てる審査請求をした結果、強制送還は猶予され、保釈が認められたノカルド氏はそのまま日本国内の支援者のもとに身を寄せることとなった。

プーチン政権を批判し、『北方領土を日本に返還したほうがいい』とまで話していた彼は、日本でヒーローになる可能性があると見られていました」

 そう語るのは、日本でノカルド氏に接触したマスコミ関係者だ。

「ところが彼の素性を辿ってみると、確固たる思想を持った政治的亡命者というわけではなく、“どうも単に日本文化や日本人女性が好きなだけではないか”ということが分かってきた。そのため、プーチン大統領の独裁的な政治体制や、北方領土問題に絡めた報道は難しいということになったのです」

 ノカルド氏はロシア西部(モスクワから東方に約1160キロ)にあるイジェフスクという中都市の出身。人口の少ない極東に移住すれば、無償で1ヘクタールの土地が与えられる「連邦プロジェクト」に応募し、2017年に国後島へ移住したとされる。

 もともと日本のアニメや合気道など日本文化に強い興味を持っていた彼は、「国後島住民」としてビザなし交流での日本渡航を希望したが、純粋な島民とはみなされずに許可が降りなかった。

 そうこうするうち、世界的な新型コロナの感染拡大により交流は中断する(その後、2022年9月にロシア側が一方的に破棄)。憧れの日本行きのチャンスを失ったノカルド氏は、無謀にも“決死の亡命”を試みた──という経緯だったようだ。

「泳いで日本を目指した動機について、ノカルド氏は“FSB(連邦保安局)と思われる勢力にパスポートを盗まれたから”と説明しましたが、確たる証拠はなく、にわかには信じがたい。そもそも彼は2011年に旅行者として来日したことがあり、その時はオーバーステイで強制退去処分を受けていた。“まともな形”で日本に再び入国するのは難しかったはずです」(同前)

 もっとも、今年2月にウクライナ戦争が勃発して日露関係が厳しくなったことで、ノカルド氏の身柄の扱いは複雑になってきたともいわれる。本気度がどの程度かはさておき、取り調べの際に「プーチン政権批判」を口にしたノカルド氏が身の危険を主張すれば、ロシアへの強制送還が猶予される可能性が高まるからだ。

 日本政府がこの「招かれざる珍客」にどのような判断を下すのか──。(取材・文/欠端大林)