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サハリンの歴史家が要塞の島マトゥア(松輪島)の伝説を暴いた

 サハリンの歴史家イーゴリ・サマリン氏が神秘の島・マトゥア島(松輪島)に関する著作2巻を著した。クリル諸島中部の小さなこの島は、活発なサリチェフ火山を除けば平凡な島である。1875年にサンクトぺテル条約(千島樺太交換条約)でクリル諸島を受け取った日本は、マトゥワ島で何をすべきか全く理解していなかった。結局、彼らは毛皮をとるためキツネを育てることにした。

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 1938年、日本海軍が島に飛行場の建設を始めた。大祖国戦争と太平洋戦争の始まりとともにすべてが変化した。日本はドイツの同盟国だった。毎年、新しい防御施設がマトゥア島に造られ、島を要塞に変えた。

 なぜ、この島に要塞が造られたのか。様々な伝説が語られた。日本軍の秘密の活動が行われ、細菌兵器が開発されていた。ドイツの潜水艦基地があり地下には町がつくられた。秘密の武器や装備はまだ地下に保管されている--など。

 2016年、サマリン氏はロシア地理学会と国防省が主催したマトゥア島遠征に、日本の軍事施設の専門家として参加した。「クリル諸島への遠征はすべてが試練だ」と歴史家は微笑んだ。マトゥアにはほとんど真水がなかったが、それは大した問題ではなかった。最大の問題はキツネだった。最悪だったのはトーチカの中。何十年もの間、キツネの家族が巣にしてきたため、古い骨や死骸が異臭を放っていた。

 サマリン氏は100を超える日本軍の軍事施設を含め、この島で200近くの構造物を確認し、図面に起こした。フィールド調査と過去の文献などに基づいて、要塞の島マトゥアの軍事史を再構築した。なぜ、防御施設が構築されたのか? 部隊や武器の種類は? 守備隊は何を食べていのか? (ちなみに兵士はネズミを食べなければならなかった)

 島で最初に造られた要塞は丁寧な造りだった。壁の内側には海藻を利用した吸音マットが入っていた。戦争の終わりごろに造られたものは手が抜かれていた。アメリカ軍は1943年、日本軍をアリューシャン列島から駆逐し、次の狙いがクリル諸島であるかのように思わせた。島伝いに南下して北海道に達するルートだ。実際、アメリカの艦隊は定期的に、マトゥア島を砲撃して見せた。日本軍の司令部はマトゥアの強化に全力を傾けた。

 こうした攻撃の中で、アメリカの潜水艦がマトゥア近海で沈没した。マトゥア遠征で、その潜水艦が発見された。砲撃によって後部を損傷し、出火。深く潜りすぎて海底に激突したため、船首が折れていた。「これが最も重要な発見だった」と、サマリン氏はマトゥア遠征を振り返った。

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 1945年、結果的にアメリカはクリル諸島に上陸しないことが分かり、日本軍は部隊と武器を引き揚げた。その数3,000人。サマリン氏によると、マトゥア島への上陸を試みた場合、膨大な犠牲が避けられなかっただろう。8月25日、ソ連軍のカムチャツカ防衛区軍の部隊がマトゥア島に上陸し、日本軍守備隊の残党を捕虜とした。それからソビエトの時代が始まった。(サハリン・クリル通信2020/9/10)

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