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北方領土から北海道へ密航したロシア人容疑者 理由は「ビール飲みたくなったから」

 ロシア(ソ連)に実効支配されて77年が過ぎた北方領土ウクライナ戦争の影響で日露関係が悪化するなか、今年9月には数少ない渡航手段であった「ビザなし交流」もプーチン政権によって一方的に破棄された。だが、北海道と北方領土は距離だけでいえば泳いで渡ることが可能な地点が何か所もあり、泳がずとも小型ボートなどで「密航」を成功させてしまった事例も数多い。2007年に根室で拘束されたロシア人は、政治的亡命の対極にあるような“お気楽な密航者”だった。1990年に日本人ジャーナリストとして初めて北方領土択捉島の上陸に成功した報道写真家・山本皓一氏がレポートする。(NEWSポストセブン2022/11/3)

 2007年4月、ロシア人がボートで納沙布岬に上陸して根室署に逮捕される事件があった。当時の新聞(読売新聞4月13日付)は、その一件をこう伝えている。

根室署によると、逮捕されたのはサハリン州ユジノサハリンスクのセルゲイ・バシュケビッチ容疑者(29)。7日午前、納沙布岬沖3.7キロの北方領土貝殻島近くの漁場に、ロシアのウニ漁船からウニを取る潜水員3人をゴムボートで運び、仲間を待つ間に「ビールを買ってこよう」と、目の前の岬に向かった〉

 記事にあるとおり、「目の前の岬」とは本土最東端の納沙布岬。霧が立ちこめなければ、日本側とロシア側のどちらからも互いの“領土”を肉眼で確認できる距離である。潜水員が潜っている間、暇を持て余していた容疑者は“仲間が浮き上がってきた時にビールを用意しておけば、とても喜ばれるのではないか”──とでも思いついたのかもしれない。記事はこう続く。

〈同島周辺での操業は今回が初めて。岬が「日本の領土であり、上陸するには、船員手帳や旅券が必要なことは認識していた」という。しかし、あまりの近さに、「ちょっと行って帰ればわからない」という軽い気持ちがわいた。岬の下の船着き場にボートを着け、ツアー客で込み合う土産物店に入った。店主(34)は「ロシア人のお客も時折来るので、特に不審に感じなかった」。ビールを頼むバシュケビッチ容疑者に、缶ビールを1本渡すと、身ぶりで「もっとたくさん」と訴えた。1箱(24本入り)を渡すと、1万円札で支払った。

 岬には、すぐにパトカーが来た。岬の沖で、ウニの種苗を放流していた地元の漁師らが、岬に向かうボートを目撃、根室署に通報していたのだ。署員は「漂流者か」と尋ねたが、バシュケビッチ容疑者は否定。同署は付近に海難のないことを根室海上保安部に確認し、逮捕した〉

もちろんこの行為はれっきとした「不法入国」なのだが、供述からは重罪の意識はまったく感じられない。地元住民が撮影していた当時の写真を見ても、容疑者の表情は“ちょっと垣根を越えてお隣さんの敷地に入っちゃっただけなんだから、大騒ぎしないでくれよ”と訴えているようにも見える。

 バシュケビッチ容疑者がなぜ日本円の1万円札を持っていたのかは定かではない。また、送迎ボートが消えてしまったウニ漁の潜水員は、浮上した時に呆然としたことだろう。

 それはさておき、上陸しても通報されることなく帰って行くロシア人は少なからずいたようだ。「海岸で見かけたロシア人が軽い怪我をしていたので手当してやったら、お礼を言ってボートで去っていった」(ある地元住民)という話もあった。

 もっとも、それを「微笑ましい日露交流」と片付けられるものではない。逆に日本人が貝殻島にボートで上陸しようものなら、理由の如何にかかわらず命の保証はないだろう。実際、過去には日露中間線(北海道と北方領土の中間に設定されたライン)を越えて操業した漁船が、ロシア国境警備隊に銃撃され、乗組員が死亡したケースもある。どれほど距離的に近いといっても、平和条約が締結されていない国家間の国境を不法な手段で越える行為は、重大な外交問題に発展しかねないのである。

 その意味では、簡単に白昼の上陸を許して気づかない日本の国境警備はやはり甘いと言わざるを得ない。そして「日本に最も近い外国」が、実は韓国でも中国でも台湾でもなく、ロシアであるということを実感させられた事件でもあった。(文・写真/山本皓一 取材協力/欠端大林)

YOUは何しに日本へ?(ボートの前に立つ容疑者/住民提供)

通報を受けて駆けつけた根室署のパトカー。バシュケビッチ容疑者のボートを取り調べている。沖合には操業中の漁船も見える(地元住民提供)