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北方領土へ泳いで渡航、拘束後にロシアへ抗議文を突きつけた「1977年の網走五郎」伝説

 2021年8月、国後島に住むロシア人男性、ワードフェニックス・ノカルド氏(当時38歳)が泳いで北海道・標津町にたどり着き、日本政府に亡命を申請した事件が話題となった。それとは逆に、北海道から北方領土に泳いで渡った日本人男性が45年前にいたことをご存じだろうか。彼にインタビューした報道写真家・山本皓一氏がレポートする。(NEWSポストセブン2022/11/3)

 北方領土に泳いで渡った男の名は「網走五郎」こと渡辺尚武氏。現在79歳で、沖縄でボクシングトレーナーを務めている。

 北海道出身の渡辺氏は、1963年に札幌市内の高校を卒業後、大学受験するも2度失敗。進学を諦めて上京し、多くの世界王者を輩出した協栄ジムに入門した。だが、裸眼視力が悪く、プロボクサーとなるための受験資格を満たすことができなかった。

 失意の渡辺氏は“言葉の錬金術師”の異名で知られる劇作家・寺山修司氏が主宰する前衛劇団「天井桟敷」に入る。北海道にちなんだ「網走五郎」の芸名を寺山氏から授かったものの、その寺山氏と衝突して3年で退団してしまう。その後は、全国各地をアルバイトしながら旅する生活を続けていた。

 1977年7月、納沙布岬に立った32歳の渡辺氏は、霧の向こうにぼんやり見える北方領土を眺め、こう思ったという。

「俺と似ている……」

 社会から疎外され続けるばかりの自身の半生と、日本から切り離されたまま歳月が過ぎていく北方領土が重なって見えたのだろう。そして驚くべき行動に出る。ウエットスーツを着込んだ渡辺氏は、納沙布岬から7キロ先の水晶島を目指して泳ぎ始める。目的は、ソ連北方領土返還を求めることだった。それは、自身の人生を取り戻すための行動でもあったという。

 白昼堂々と泳ぎ始めた渡辺氏の姿は、すぐに根室航路標識事務所の職員に発見され、通報を受けた海上保安庁は巡視艇「はまなみ」を現地に急行させる。だが、渡辺氏は日本とソ連の中間線を突破し、納沙布岬から約3.7キロにある貝殻島付近で座礁したまま放置されていた日本の刺し網漁船に辿り着き、そこで休憩を始めた。

「はまなみ」はその姿を確認したものの、すでにそこはソ連が実効支配する海域のため、手出しできない。渡辺氏は持っていた日の丸の旗を振るなどのパフォーマンスを演じたが、間もなく後方からやってきたソ連警備艇に取り押さえられ、連行されてしまう。

 だが、拘束されることも最初から想定していた渡辺氏は、あらかじめ用意していた「抗議文」をソ連政府の役人に手渡した。それはこんな書き出しで始まっていた。

〈私は単身、泳いで日本からやって来た網走五郎と言う者です。年齢は三十二歳。私は貴国に亡命したくてやって来たのではありません。北方領土返還の抗議に来たのです。歯舞・色丹・国後・択捉の四島は日本固有の領土です。早急に返還して下さい〉

 その後、渡辺氏はサハリン州の州都・ユジノサハリンスクに移送されて刑務所に収容されたが、そこには違法操業で拿捕された何人かの日本漁船員もいた。渡辺氏は、自分の行動が彼らから称賛されると思っていたが、逆に「迷惑している」と言われて意気消沈したという。

 それでも渡辺氏は“渡航の目的”を貫いてみせた。2005年に筆者がインタビューした際には、当時の様子をこう明かしてくれた。

「サハリンでの待遇は悪くなかった。監獄に入れられてからも“北方領土を返せ”と言い続けた私に、むしろ監獄の職員たちは好意的な目を向けてくれたほどだった。『お前(渡辺氏)の行動は勇気がある。日本に帰ったら、お前は英雄になるんじゃないか』と褒められたりもした」

 約半年が過ぎた12月、渡辺氏は日本人漁船員らとともに釈放されて日本に戻る。しかし「英雄」にはなれなかった。今度は「密出国」の容疑で釧路地検の取り調べを受ける羽目になったのだ。

 渡辺氏は「北方領土に行くのは純然たる日本国内の移動だ。どこが密出国なのか」と強硬に反論したものの、地検は「拘束されてソ連本国(サハリン)に連行されてもやむを得ないことを知っていたうえで北方領土に入った。だから密出国だ」と判断し、渡辺氏を書類送検したのである。

 この扱いに憤慨した渡辺氏は別の渡航計画を思いつく。「北東がダメなら、今度は南西の果てにある日本領土に自力で行ってやる」と考えたのである。

 1980年、渡辺氏は与那国島から尖閣諸島魚釣島まで、手漕ぎボートで32時間かけて渡航。上陸後は約1か月にわたって島で生活したのである(もっとも、この時は海上保安庁が「漁船で曳航されたもの」との情報を流したため、それほど話題にはならなかった)。

 日本の「北東の果て」と「南西の果て」を舞台に一世一代のパフォーマンスを敢行した渡辺氏だが、1983年に沖縄県護国神社で働き始めるとともにボクシングトレーナーとなり、指導者として実績を残した。今では沖縄のボクシング界では知らぬ者はいない「名伯楽」として知られている。北方領土返還の抗議は実らなかったが、自身の人生は軌道修正できたのかもしれない。(文・写真/山本皓一 取材協力/欠端大林)

「網走五郎」こと渡辺尚武氏。写真は尖閣諸島魚釣島に手漕ぎボートで渡航した際のもの(渡辺氏提供)

尖閣諸島魚釣島に上陸した時の様子。奥に見えるのは、かつての鰹節工場跡を利用して政治団体が建てた小屋(渡辺氏提供)