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ソ連軍の北方領土侵攻を伝えた陸揚庫           プロモーションビデオ「もの言わぬ語り部」公開

 1929年(昭和4年)9月に旧逓信省により建設された根室国後間海底電信線陸揚施設(通称・陸揚庫)は根室側の陸揚線と国後島へ延びる海底電信線を接続する中継施設で、かつて北方領土に日本人が住んでいた頃、この陸揚庫から延びた海底電信線は、国後島を経由して、択捉島までつながっており、島民の暮らしやサケ・マス漁業などの産業を支える通信インフラとして、島々の発展に大きな役割を果たしていました。

 1945年(昭和20年)、ソ連軍が北方領土に進行した直後には、上陸したソ連軍による略奪行為による恐怖と不安で緊迫する島々の状況が、この陸揚庫と電信線を通じて、電報や電話で根室側に伝えられました。 陸揚庫は、かつて根室北方領土とつながっていたことを示す本土に残る唯一の歴史的建造物であり、ソ連軍の侵攻と占領をリアルタイムで伝えた『歴史の証人』です。

 根室市では令和4年度にプロモーションビデオを制作し、根室市を訪問する視察団体への配布や北方領土啓発事業等に広く活用しています。

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00:00   01プロローグ

第1章の上映時間は4分6秒です。本編の内容を短くまとめて紹介しています。

04:05   02電信線、国後島択捉島

第2章の上映時間は6分14秒です。1887年(明治30年)5月に行われた択捉島での架設工事は、暴風雨の夜、作業員4人が凍死するなど困難を極めました。

10:20   03暮らしと漁業を支えた電報

第3章の上映時間2分49秒です。1940年(昭和15年)の北方四島周辺海域における漁獲量は実に26万トンを記録しています。外貨獲得の花形とうたわれたカニの缶詰工場は国後島だけで14を数え、漁業の繁忙期には本土から1万人以上が出稼ぎに来て、島は活気にあふれていました。

13:09   04ソ連軍の北方領土侵攻と占領

第4章は上映時間8分7秒です。ソ連軍は1945年(昭和20年)8月28日に択捉島、9月1日に国後島に侵攻。上陸したソ連軍による略奪行為による恐怖と不安で緊迫する島々の状況は、この陸揚庫と電信線を通じて、電報や電話で根室側に伝えられました。道立文書館に永久保存されている「千島及離島ソ連軍進駐状況綴」には、実物の電報21通と電話の受理票が綴じられています。陸揚庫はソ連軍による北方領土侵攻と占領をリアルタイムで伝えた、忘れてはいけない歴史の証人です。

21:16   05陸揚庫の謎

第5章「陸揚庫の謎」は上映時間5分28秒です。1929年(昭和4年)に建てられた陸揚庫を手がけたのは明治、大正、昭和にかけて、日本の建築における思想と技術を牽引したエリート建築集団、旧逓信省の営繕課です。陸揚庫には最先端のデザインと技術が採り入れられていました。

26:45   06保存と活用に向けて

第6章の上映時間は5分1秒です。戦後、ソ連に占領された国後島と繋がっていた海底電信線は、ソ連によるスパイ活動に利用される恐れがあるとして、根室側の陸揚庫の立ち上がりから切断され、その役目を終えるとともに、その存在自体が忘れ去られてしまいます。

31:46   07エピローグ もの言わぬ語り部

第7章の上映時間は2分36秒です。

「壁のモルタルは無残に崩れ落ち、むき出しの鉄筋はさび付いて、風に飛ばされそうなほど、やせ細っています。風雪に耐え、幾年月。深いシワが刻まれたような、その風貌は、帰りたくても帰れない、故郷の島影を見つめてきた元島民の姿に重なってきます。自らの体験を『私は…』と、一人称で語ることができる元島民が年々、少なくなっていく中で、ソ連軍による侵攻と占領を伝えた歴史の証人として、また、かつて北方領土に日本人の豊かな暮らしがあった記憶を、その姿で伝える「もの言わぬ語り部」として、いま、時代が、陸揚庫に新たな役割を求めています」