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国後島から北海道へ泳いで渡ったロシア人 名前を変えて日本で暮らすことになった 露紙が取材


 2021年8月、北方領土国後島から海を泳いで北海道へ渡ったロシア人がいる。男性の名前はワースフェニックス・ノカルド。北海道標津町で警察に保護され、入管施設に収容された後に難民認定を申請し、同10月に仮放免されている。渡航の理由は「強権体制のロシアから離れたかったから、プーチン政権に嫌気が差したから」であると語った。同氏は露紙「コムソモリスカヤ・プラウダ」サハリン版の取材に答えている。彼はいま、どのように暮らしているのだろうか。(クーリエ・ジャポン2022/6/8)

見張り小屋の下を通り…

 先に少し説明しておこう。ワースフェニックス・ノカルドというのは本名だが、出生時の名前ではない。以前の彼は、ウラルのイジェフスク市出身のウラジーミル・メゼンツエフといった。しかしその後、パスポートの氏名を変えることにしたのである。

 彼は2017年に「極東ヘクタール」(極東への移住を促すロシア政府の政策。移住者には1ヘクタールの土地が無償で与えられる)の対象だったクリル諸島へ移住した。ぽつんと建つ小さな家に住み、たまに手に入る賃仕事でどうにかこうにかやり繰りをしながら、隣国日本の言語を勉強し、同国へのビザなし渡航を夢見ていた。

 だが新型コロナによるロックダウンとともに、日出ずる国への夢は断たれてしまった(ちなみに、彼は2011年に一度日本へ行ったことがある)。

 「2021年の夏に、すごくロシアを出ていきたくなったんだ。どこへ行くのがいいか、近所の人たちと話し合ったよ。オーストラリアかカナダがいいかなと思ったけど、まあ、最悪でもポーランドチェコかなって」

 「でも8月の初め頃に、パスポートを2つともなくしてしまったんだ(ロシアでは海外用と国内の身分証明用、二種のパスポートが交付される)。探したんだけど、まずいことになったとわかって絶望した。自分に残された道はひとつ、日本しかないと思ったんだ」

 遠泳の準備は20時間以上かかったという。だがウエットスーツとフィンは持っていた。それからワースフェニックスは、泊湾の海流や天気、水温についての情報を入手する。ちなみに潮の流れが強かったから、いちばんの隘路からの出発はしなかった。だが出発地点に近いところには、国境警備隊の監視所もあったという。

 「国境は完全に管理されているから、僕が海に飛び込んだところで、泳ぎ始める前に捕まると島の人たちは全員信じてたんだ。警備隊に捕まって逮捕されるんじゃないかと怖かったよ。それでも見張り小屋のほとんど真下を通ったけど、誰も気づかなかった。その後は監視が厳しくなったと思う」

バッグを浮き輪代わりに

 どうやって海を30キロも泳いで国境を超えたのか。その具体的な方法について、ワースフェニックスは話したがらなかった。だがプロのアスリートでさえ、そんなことが果たして可能なのかと問うと、非常に懐疑的な答えが返ってきた。

 ワースフェニックスは危険防止のためにバッグを使ったという。体の下にバッグを敷いて泳いだのだ。しかしすでに夜で、コンパスは見えず、地平線の照り返しを目印にしなければならなかった。

 彼は写真を送ってくれて、フィンの痕がいまだに消えないと自慢げに語った。足をどれだけ激しく使ったかを物語っている。

 「出発地点まではバイクで行った。4キロ手前で、バイクは売っていいよという彼女宛ての書置きと一緒にバイクを茂みに隠したよ。その先は歩いて行った。泳ぎ出したのはサハリン時間の6時10分、ゴロヴニノの近くから。きっかり23時間泳いだよ、10リットルのバッグと一緒にね」

 「バッグの中には電話と、入るだけの物をいろいろ詰めた。家族のことを考えたかって? 夜になったときに冷気を感じて、それから雨が降ってきて、母のことを考えた。僕の遺体が見つかったら、母と姉妹たちがどんなにがっかりするだろうかと。だから、なにがなんでも死ぬわけにいかなかったんだ」

 標津の3キロ北方の海岸に彼は到着した。浜に這い上がると、彼はたちまち脱力してしまったという。立ち上がることができるようになるまで40分ほど草の上に転がっていたそうだ。それから何かを食べることにし、コンビニまで行ってサンドイッチと飲み物を買っている。近くでWi-Fiが使えることもわかった。

 疲れていたものの結果に満足していたワースフェニックスは、何時間かかけて家族や近しい人たちにメールをした。万事順調だと。それから、朝のうちに住宅街へと向かった。

 ワースフェニックスはまず店に寄り、3000円のスニーカーを買っている。国後島の船乗りに両替してもらった日本円、3000円を持っていたのだ。それからコンビニに寄り、飲み物と食べ物を買った。そうして腹が満たされると、交番へ向かったという。

 「交番にはお巡りさんがいなかったんだ。日本人たちは、よそ者がいるなんてここじゃ普通のことというふうな素振りだったね。看板も日本語とロシア語の二言語表示が多かったよ。僕の頼みで警察を呼んでくれたおじいさんがいなかったら、野宿していただろうね」

 警察がやってきて拘束されると、ワースフェニックスはすぐに入管施設入りを希望した。日本人たちは、スマホに入っているクリル諸島の写真や、ロシアの運転免許証、銀行のカード、SNILS(ロシアの年金基金用の個人番号)を見せても尚、彼が泳いで島までたどり着いたなどとは到底信じられなかった。警察が海岸でウエットスーツを発見し、ようやく疑いが晴れたのだった。

 何者なのかが確定すると、ワースフェニックスは紋別市に送られ、そこで日本外務省による取り調べが始まる。最終的に彼は新しい名前で日本で暮らすことになった。

かつてフィリピンに泳ぎ着いた人も

 ワースフェニックスは自分の居住地を絶対に言おうとしない。だが彼が南の島にいるということはわかっている。沖縄の可能性が高いだろう。日本人の家庭で暮らしながら、秘密保持のために新しい名前を名乗っているのだという。それが日本の外務省の出した条件だった。

 クリル諸島にあるワースフェニックスのかつての住まいを見てみると、壁には日本語で「人は意志と良心!」、「雌竜を探している」と書かれている。聞いてみると、彼の言う「雌竜」は見つかっていないそうだ。

 「残念ながら見つからないんだよ。仲のいい男は二人できたけどね。だけど僕は秘密保持があるから、個人データを教えられないんだ。名前がいくつかあるから、彼らは混乱するだろうしね」

 ワースフェニックスは身内との交流も続けている。いちばんは母親だ。誰かが彼女に、ワースフェニックスは殺されそうだなどとひどいことを言ったらしいが、彼女は気丈に耐えたという。

 だが他の身内やロシアの友人たちのことを、ワースフェニックスは忘れかけている。ロシアに戻る気はないが、祖国は恋しい。

 同じようにしてソ連から亡命した先達がいることをお伝えしておこう。もっとも有名なのは、沿海州のスタニスラフ・クリロフだ。このソ連海洋学者は出国ビザを出してもらえなかったために、クルーズ船から海に飛び込んだのである。

 彼は三日間を水中で過ごし、約100キロを泳いで、フィリピンまでたどりついている。