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国後島での生活 私の誇り 乳呑路生まれ釧路の高橋さん「返還あきらめない 爺々岳、富士山なんか比じゃない美しさ」

 北方領土国後島で生まれ、15歳まで過ごした高橋栄子さん(89)=釧路市=が、子ども時代に経験したソ連占領下での島での生活を北海道新聞の取材に初めて明かした。決して忘れることができないという美しい自然や、強制労働のため島内を転々とさせられた日々。ロシアによるウクライナ侵攻で領土交渉が白紙に戻る中、「島での暮らしは私の誇り。この年になっても返還を決してあきらめることはできない」と語る。(北海道新聞釧路根室版2022/5/16)

 高橋さんは1933年、国後島乳呑路(ちのみのち)生まれ。実家はコンブ漁や大工仕事で生計を立てていた。食べ物が豊富で「カニを食べたくなったら浜、サケが欲しければ川に行けばよかった。ポンポンとれた」と振り返る。最も印象に残っているのは同島最高峰の爺々(ちゃちゃ)岳の美しさ。「浜に行き、くるっと後ろを振り向いたら目に入る。富士山なんか比じゃない」と懐かしむ。

 生活が急変したのは45年。日本のポツダム宣言受諾後に起きた旧ソ連軍による北方四島侵攻だった。乳呑路でも「ロシア人が来る」とのうわさが走り、女性は山に逃げ、高橋さんも馬小屋に隠れた。ロシア人が上陸すると高橋さんが通う乳呑路の小学校ではロシア人のためのクラスができた。学校入り口近くに飾られていた天皇陛下の写真はソ連の指導者・スターリンに代わり、日本人の児童も登校時には頭を下げた。数の数え方のほか、いたずらをした子が入れられたという「チュルマ」(牢屋(ろうや))や「カピタン」(大尉)などのロシア語を今も覚えている。

 尋常小学校高等科卒業後は乳呑路を離れ、国後島の古釜布や泊で、ロシア人に接収させられたカニの缶詰工場やホタテ加工場でロシア人に働かされた。働ける女性が島中から集められ夜中に重いセメントを背負って運ぶことも。「当時まだ14、15歳。骨格は子どもなのに重労働を強いられ体を壊した。本当にひどかった」。親元を離れて暮らすのは初めてで、古釜布では乳呑路の方を向いては泣いていた。

 数カ月後、「帰って良い」と言われ乳呑路に戻ると、大人たちは引き揚げの準備をしていた。島を引き揚げたのは48年秋。樺太経由で函館にたどり着き、その後は親戚がいる根室で長く暮らした。引き揚げ後、初めて国後島を間近に見たのは92年の洋上墓参。デッキから子どものころに働いた缶詰工場があった古釜布が見えると、当時の苦労が思い出され目頭が熱くなった。その後もビザなし渡航で複数回、国後島を訪れた。

 高橋さんはこれまで遠慮の気持ちが先立ち、島での生活を人前で語らずにきた。だが、千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)釧路支部の堀江則男支部長に自身の経験を話したところ、「元島民が高齢化する中、ここまで島の暮らしについて知っている人は少ない。語ることも大切な返還運動の一つ」と勧められた。ロシアのウクライナ侵攻で渡航事業再開の見通しは立たないが、「元島民はみな島が恋しい」と訴える。

 島を訪れた友人から、乳呑路の生家跡には桜の木が今でも残っていると聞いた。「通学時に毎日見ていたチシマザクラだろうか。高齢で私はもう難しいが、いつの日か子や孫に島で生きた証しを見てきてほしい」と願っている。(今井裕紀)