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南クリル地区(北方四島)の歴史から 1946年9月、最初のロシア人学校が開校

赤軍が南クリル諸島(北方四島)を占領した後の1945年8月から9月にかけて、国後島色丹島、小クリル諸島(歯舞群島)の島々で17の日本人学校が運営されていた。色丹島と小クリル諸島のゼリョーヌイ島(志発島)、ポロンスキー島(多楽島)、ユーリ島(勇留島)、アヌーチナ島(秋勇留島)、タンフィリエフ島(水晶島)=島名や地名の改正は1947年に行われた=では、教師は1人だけだった。3つの学校があった国後島では5~6人の教師が働いていた。1946年1月、クナシル地区(1947年まで、日本名で呼ばれていた)の民政局長V.A.ハブカディア大尉は、9月1日までに既存の日本人の学校を活用してロシア人の学校を開設するよう命令を出した。1946年、日本人は南クリル諸島から離れ始めた。1946年9月1日、フルカマップ村(古釜布=現ユジノクリリスク)に寄宿舎を備えた最初の中等学校が開設された。続いてトマリ村(泊=現ゴロブニノ)に第2小学校、ティノミノチ村(乳呑路=現チャティーノ)に第3学校、色丹島のシャコタン(斜古丹=マロクリリスコエ)に第4学校、シボツ島(志発島=ゼリョーヌイ)に第5学校ができた。当時、4,246人の日本人と入植した最初のソビエト市民1,886人が南クリル地区(国後島色丹島歯舞群島)に住んでいた。1950年5月には、15のソビエトの学校が運営されていた。そこで勉強していたのは、1年生-4年生858人を含む1,392人だった。勉強したのは子供だけではなかった。ソ連の様々な地域から移住した人々の中には読み書きができない人がかなりの数いた。国後島には7年制の学校がセルノボツク(東沸)、ゴロブニノ(泊)、チャティーノ(乳呑路)、クルグロボ、アレヒーノに5校あり、地区センター(古釜布)の夜間学校と合わせて122人の児童生徒がいた。さらにオトラダ(近布内)、コスモデミャンスク、ラグンノエ(ニキシロ)、パルツソボ、ペトロボには20人から45人の子供たちが学んでいた。色丹島にはマロクリリスコエ(斜古丹、119人)とクラボザボツコエ(穴澗、79人)に2つの7年制学校があった。マロクリリスコエには寄宿舎が整備されクラボザボツコエから来た8-10年生が住んでいた。ゼリョーヌイ島のゼレノフスク村では85人が学んだ。党と政府の呼びかけで、教育大学や一般の大学を卒業した90人の若者が島々に到着し、15のソ連人の学校で教えた。参考までに、2022年時点で1,260人の児童生徒が国後島色丹島の5つの中等学校で学んでいる。教職員は97人である。(kurilnews.ru 2022/8/30)

南クリル中等学校(古釜布)の10年生(1948年)

色丹島マロクリリスコエ(斜古丹)中等学校の卒業生(1967年)