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樺太経由の強制退去「最悪なんてもんじゃない。地獄だった」

戦後75年 領土の記憶(4)

島民を家畜扱い 地獄の強制送還

産経新聞2020.8.31f:id:moto-tomin2sei:20200831150722j:plain

  「日本へ帰れ。残るならソ連人になれ」。色丹(しこたん)島色丹村で暮らしていた得能(とくのう)宏さん(86)の一家は昭和22(1947)年9月下旬、ソ連側から突然、そう通告された。あくまでソ連領であるかのような通告だった。

 それでも母を中心に準備を急いだ。日本陸軍北方特別警備隊長(中尉)だった父、源治さんは戦犯として樺太(からふと)(サハリン)北部に連行されていた。米や乾パンなど保存できる食料をかき集めた。母は位牌(いはい)と家族の写真を、姉は1週間前に亡くした長男(享年1)の遺骨をトランクにしまった。

 ソ連軍が20(1945)年8月28日に択捉(えとろふ)島に上陸し国後(くなしり)、色丹両島と歯舞(はぼまい)群島を相次ぎ不法占拠して以降、北方四島の住民1万7000人余りのうち約半数が島を脱出した。残る半数は先祖伝来の地を守り、住み慣れた島で平和に暮らしたいと願って、それぞれの島に残っていた。得能さん一家もそうだった。

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得能宏さん

 だが、待っていたのは強制的な樺太を経由した「引き揚げ」だった=注釈〔1〕。一方的な命令により島民は家屋や船舶、財産の多くを放棄させられた。ほとんど着の身着のままの状態で故郷を追われた。

 

荷物と一緒に入れられ…なぜか樺太に到着

 「最悪なんてもんじゃない。地獄だった」。得能さんは、そう振り返った。

 22年10月上旬だった。色丹島北東部の斜古丹(しゃこたん)湾で、母と姉、弟、妹、そして姉の長女の6人で小さな船に乗せられ、沖合に停泊するソ連の貨物船に向かった。1万トンを超える貨物船から伸びるクレーンの吊(つ)り網に荷物と一緒に入れられ、一気に10メートルほど吊り上げられると船倉に下ろされた。

 「大きく振りながら引き上げたから、みんな必死に網につかまり、悲鳴を上げた。モノと同じだった」

 船倉は択捉島国後島からの島民らであふれ、悪臭が漂っていた。一家は2段ベッドと3段ベッドの中段と下段をあてがわれた。歯舞群島でさらに島民を乗せた。誰もが北海道・根室に運ばれると思っていた。だが、3日後、着いた場所は極寒の樺太・真岡(まおか)町だった=注釈〔2〕。

 その途中、大しけにあった。甲板に作られた仮設トイレは波をかぶり、汚物があふれ、その海水が船倉にも流れ込んできた。得能さんは「地獄だった」と何度も繰り返した。

 

船内は最悪の環境、最もつらい思い出

 国後島留夜別(るよべつ)村に住んでいた廣瀬多喜子さん(86)も同じだった。昼食をとっていると突然、母から「引き揚げる。船が来ているから準備して」と言われた。昼食の後片付けもせずリュックに衣類を詰め込んだ。

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廣瀬多喜子さん

 「貨物船はものすごく揺れて、そのたびにみんな転げまわった。甲板は船酔いの吐瀉(としゃ)物や汚物があり、波をかぶるたびに一緒に流れていた。半端じゃなかった。母と同年代の女性が子供を残して亡くなった」

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三上洋一さん

 人間らしさとはかけ離れた劣悪な環境。最もつらい思い出だった。択捉島留別(るべつ)村で暮らしていた三上洋一さん(83)も「荷物と同じだった。貨物船には何千人も乗っていたから狭い船倉では寝返りも打てなかった。3日間、水もろくに飲めなかった」と振り返る。

 ある元島民は「船内は最悪の環境で、家畜扱いだった」と話した。「食事は1日に薄く切った黒パンを2枚と生の塩魚の切り身が少し。持ち込んだ生米をかじって飢えをしのいだ」などの証言もある。

 まさに「地獄の強制送還」だった。しかも地獄は移動する船だけではなかった。収容先の樺太真岡町でも続いた。(編集委員 宮本雅史

 ■今回の証言者

得能宏さん 昭和9年2月、色丹島色丹村生まれ。北方領土アニメーション映画「ジョバンニの島」の主人公・純平のモデル。現在、北海道根室市水産業を営む。北方地域漁業権補償推進委員会理事、千島歯舞諸島居住者連盟援護問題等専門委員を務める。

廣瀬多喜子さん 昭和8年12月、国後島留夜別村生まれ。父は逓信省職員で乳呑路(ちのみのち)郵便局に駐在し、電話通信業務に従事した。結婚後は全国8カ所に転居し、行く先々で「北方領土ってどこ?」などと言われ、悔しい思いをした。川崎市在住。

三上洋一さん 昭和12年4月、択捉島留別村生まれ。北海道大農学部卒。農学博士(東大)。日本専売公社日本たばこ産業)で特許室長、(塩専売)海水総合研究所長などを歴任。現在、千島歯舞諸島居住者連盟「北方領土語り部」に登録し、返還を訴えている。相模原市在住。

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色丹島捕鯨場で解体処理されるシロナガスクジラ(千島歯舞諸島居住者連盟提供)

注釈〔1〕 一般的に「引き揚げ」と言われるが、広辞苑は「引揚げ者」を「引き揚げる人。特に第二次大戦後、国外から引き揚げて内地へ帰ってきた者」としている。北方四島は国外ではなく日本固有の領土であり、政府は「強制退去という言葉を使っている」(内閣府)という。

注釈〔2〕 日露戦争の結果、樺太の北緯50度線以南が日本領になり、真岡町林業と製紙業で栄えた。昭和20(1945)年8月22日、ソ連軍に占拠される。このとき真岡郵便局の9人の女性局員は最後まで電話交換業務に従事し、集団自決した。「北のひめゆり」「真岡郵便電信局事件」として知られる。

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