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北方領土返還、諦めない 「古里を伝え続ける」択捉島出身・山本忠平さん(87歳)

 北方領土最大の島、択捉島出身の山本忠平さん(87)=神戸市中央区=は77年前、旧ソ連軍の占領下での暮らしを余儀なくされ、追い出されるように日本へ強制送還された。13年前から「語り部」となり、戦前からの島での暮らしを伝えている。ロシアによるウクライナ侵攻で、日露関係は悪化し、領土返還の道のりは険しくなっているが、「諦めずに国民が返還の声を上げ続け、チャンスを待つべきだ」と語る。(毎日新聞2022/8/16)

終戦後に強制送還

 生まれたのは祖父の代が開拓した択捉島東端の蘂取(しべとろ)村。サケ、マスが豊富に取れ、捕鯨基地もあった漁業の村で、300人前後が暮らしていた。太平洋戦争が始まり、旧日本軍の守備隊が駐留。戦況が厳しくなると、軍幹部は住民に「敵が上陸したら、あなたたちを守れない。自分たちで身を守りなさい」と武器を持って戦う覚悟を求めた。終戦まで村が攻撃を受けることはなかったが、村会議員を務めていた父は戦争末期の1945年7月、買い出しに出かけた北海道で空襲の犠牲になった。翌月の終戦時、軍は住民に「武装解除して、島から出ないように」と命じて解散した。逃げようにも本土に渡れる輸送船は供出して、残っていなかった。

 同年9月末、旧ソ連軍が村に進駐し、住民からめぼしい金品を奪った。学校ではスターリンの肖像が飾られ、ロシア語の授業が始まった。46年春、大陸から大部隊と大勢の労働者がやってきて、村人の家に勝手に住み着いた。翌年8月、旧ソ連軍は突然、住民に島からの退去を命じ、「ソ連の国籍をとれば島に残れる」と告げた。山本さんが知る限り、残留を選んだ住民はいなかった。貨物船の船倉に押し込められ、樺太に送られた。1カ月ほどの収容所生活を経て、日本から迎えに来た船で北海道にたどり着いた。12歳の時だった。

44年後の村、草原に

 高校卒業後、神戸市内の海産物会社に勤めた。北方領土に渡るチャンスがあるかもしれないと、捕鯨船に乗ったこともあった。択捉島の土を踏めたのは、強制送還から44年後。旧ソ連択捉島へのビザなし訪問を認めたことから91年、元島民らでつくる墓参団に参加した。蘂取村は人家が消えて、荒れ果てた草原になっていた。ロシア人がなぜ村を放棄したのか。同行した兵士に聞いても、教えてくれなかった。丘にあった墓地はなくなり、墓石が近くに捨てられていた。この地で眠る祖父ら、村を開拓した先人に申し訳ない気持ちになり、涙があふれた。

 旧ソ連崩壊後、ロシアが実効支配するようになっても、ビザなし交流は続き、山本さんはほぼ3年おきに訪問してきた。若い世代のロシア人は「ソ連が日本の帝国主義から島を開放した」と教えられていたが、「この島で生まれ育った」と話すと、ほとんどの住民は歓迎してくれた。本音で話せるような関係になると、「日本に帰属した方が豊かになれるのに」と漏らす人もいた。ただ、「国家としてのロシアは個々のロシア人とは別物。第二次世界大戦時と変わらない覇権主義の論理で動いている」と感じてきた。

 2009年に元島民らでつくる団体の語り部になり、日本各地で講演活動をしている。元島民は高齢化で減少し、北方領土で日本人が普通に暮らした時代を伝えていかなければと思ったからだ。

 20年の墓参は、新型コロナウイルス感染拡大で中止に。再開を待っていたが、ウクライナへの軍事侵攻が始まった。半年近くたっても戦闘はやまない。山本さんは「20世紀の戦争の悲劇をまた繰り返すのか」とロシアの蛮行に憤る。

 ロシアは日本の経済制裁への報復で、北方領土の返還交渉や訪問事業の中止を一方的に宣言した。山本さんは「ウクライナ国民の苦しみを思えば仕方ない」と受け止める。そのうえで、「現ロシア政権では難しいかもしれないが、いつかチャンスは来る。そのためには国民が『領土を返せ』と言い続けなければならない。私は古里のことを伝え続けたい」と話す。

北方領土

 北海道の北東に位置する択捉島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島の4島。江戸時代に開拓が進み、1855年に幕府とロシアが結んだ条約で、日本の領土と確定した。第二次世界大戦の敗戦を受け入れた後の1945年8月末から旧ソ連軍が侵攻し、約1万7000人が強制送還された。1956年の日ソ共同宣言で、平和条約締結後に色丹、歯舞の2島返還が決まったものの、今も返還の見通しは立っていない。【山本真也】