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択捉島で日本の墓を発見 1990年5月、日本人ジャーナリストとして初めて択捉島を訪れた写真家

AERA dot. 2022/12/23

 「偶然なんですけれど、(今年7月に亡くなった)安倍晋三さんの遺影はぼくが撮影した写真なんです。不思議なことに父の晋太郎さんの遺影もぼくが撮った。親子2代の遺影を写したなんて、これはどういう因縁だろうと思いましたね」

 山本皓一(こういち)さんは複雑な表情で、こう口にした。

 1990年、日本人ジャーナリストとして初めて北方領土の択捉(えとろふ)島を訪れた山本さんは、以後32年にわたって「日本の国境」を写してきた。そのきっかけの一つが北方領土返還交渉で目にした安倍晋太郎の壮絶な姿だった。

■「金権角栄のお抱えカメラマン」

「とにかく、誰も撮っていないものを一番に撮りたい、っていうのが若いころからの一番のモチベーションだった」

 43年、香川県生まれ。日大芸術学部写真学科を卒業後、71年、小学館に入社。主に「週刊ポスト」でグラビアを担当した。

「当時はいい時代でね、バンバン海外に行かせてもらえた」

 すると、「国境」への興味が湧いてきた。

「最初は国境への憧れというか、『辺境ろまん』みたいなものだったんです。でも次第に、国境というのはすごいところだなあ、と思うようになった」

 当時は東西冷戦の真っただなか。東欧の国境では地雷を埋められていることを示すドクロマークを目にした。戦車もにらみをきかせていた。北朝鮮から板門店を訪れ、韓国との休戦ラインにある緊張感も体験した。

 83年、山本さんはフリーになると、誰も撮ったことのない「秘境」を目指した。

「本当は退職金でアマゾンとかに行きたかったんだけれど、とても足りない。でも、探したら東京にも“秘境”があった。(当時の首相だった)田中角栄が住む目白の田中邸ですよ。それで角栄の百面相を追った。そうしたら、面白くなっちゃって、半年のつもりだった撮影が約3年になった」

 85年、写真集『田中角栄全記録』(集英社)を出すと、売れに売れた。

「『金権角栄のお抱えカメラマン。金をいくらもらったんだ』って、さんざんたたかれましたよ。当時は『角福戦争』のさなかだった。次に政治家を撮るなら角さんの反対側にいた福田派の安倍晋太郎だなと思った。そのとき秘書としてついていたのが安倍晋三だった。ぼくらは時間待ちなんかでお茶を飲んだりしているうちにだんだん親しくなった」

安倍晋太郎の誘い

 ちょうどそのころ、のちの国境取材を決定づける出来事があった。山本さんは作家の椎名誠さんとともにチリ海軍の軍艦に同乗し、南極を取材した。

 船は途中、南米大陸の最南端、ホーン岬からさらに南西約100キロにあるディエゴ・ラミレス島に立ち寄り、駐屯地に食料を補給した。

竹島にそっくりな岩礁の島なんですよ。そこに6人の兵士が駐屯していた。すごいところだなあ、と思って、なぜこんなところにいるんですか、と尋ねたら、この島が紛れもなく、チリの領土であるということを証明するためにわれわれがいる。大事な仕事であり、誇りを持ってやっている、と言った。国境とはそういうものなのか、という思いと同時に、日本の国境はどうなっているのだろうか、と疑問が湧いた」

 なかでも気になったのが日本最北の島、択捉島だった。しかし、ソ連が実効支配する択捉島には日本人はおろか、ロシア人さえも特別な許可がなければ入れない最前線の島だった。

 そんなある日、山本さんは安倍晋太郎氏から「ゴルバチョフを撮ってみたくないか」と、声をかけられた。

「あのころのソ連ペレストロイカ(立て直し)でこんなふうになっていたときですよ」と、山本さんは手のひらを揺らし、こう続けた。

「そりゃあ、撮りたいですよ。当時、ゴルバチョフは世界で一番ホットな人でしたから」

安倍晋三の頼み

 90年1月、山本さんは元外相・安倍晋太郎を団長とする自民党訪ソ団に同行し、モスクワを訪れた。

「ここで一発、ゴルバチョフと派手な写真を撮っておいたほうがいいという、計算はもちろんあったと思いますね。当然、撮影を朝日や読売に頼むわけにはいかない。ぼくはフリーだから、と思ったのかもしれない。まあ、いずれにせよ、とてもラッキーだった」

 長年、ソ連は日ソ間に領土問題があること自体を否定してきた。そんななか、安倍晋太郎氏はゴルバチョフ大統領から「領土問題に関しては英知ある解決をする」という言葉を引き出した。

「つまり、北方領土問題の存在をソ連に認めさせたのが安倍晋太郎だった。でも、もうそのときはすい臓がんに侵されていた。真っ青な顔をして、ガリガリにやせていた」

 ゴルバチョフ会談の成果を日本へテレビ中継する際、山本さんは安倍晋三氏から頼まれた。

「あの顔色じゃあ、テレビに出せないからドーランを探してくれないか、と晋三さんが言うんです。それでぼくはモスクワのテレビ局からドーランを借りてきた。そして晋太郎さんは口に含み綿を入れてテレビに出た。そんな悲壮な覚悟というか、北方領土問題に命をかけている姿を間近で見た。よし、それだったら、ぼくは取材したかった国境、北方領土択捉島をどうしても撮りたい、と思った」

北方領土択捉島

択捉島で日本の墓を発見

 ソ連崩壊直前という状況も後押しした。

「今なら択捉島に入れそうだ」

 旧知のノーボスチ通信社のハバロフスク支局長から連絡があった。サハリン州政府と交渉の末、山本さんは同年5月、択捉島の土を踏んだ。

「一番気になっていたのは、日本人の墓です。それまでソ連は『択捉島には日本人の墓はすでに風化して存在しない』として、墓参団を受け入れてこなかった。だから、日本人が暮していた痕跡と墓を探した。そうしたらあったんです」

 町はずれの高台にあるロシア人墓地で日本人の墓を見つけた。

「墓石は倒れたり、埋まっていたりしていた。ロシア人墓地の囲いの土台にされていた墓石もあった」

 山本さんはクリル(北方領土を含む千島諸島)区長(クーチェル)から「われわれには日本人の墓を整備するための専門知識がない。専門家を送ってほしい」と頼まれた。

択捉島から帰ると安倍晋太郎さんを訪ねて、手書きの墓の見取り図と写真を渡した。クーチェルの言葉も伝えた。すると晋太郎さんは、わかった。関係機関にすぐに連絡する、と言った」

 日本人墓地の発見は大きく報道され、同年8月には初の択捉島への墓参が実現した。そして翌年5月、安倍晋太郎氏は亡くなった。ソ連が崩壊したのはその7カ月後だった。

「この目で択捉島を見たことで、じゃあ、尖閣諸島竹島とか、他の国境はどうなっているんだ、と思った。調べてみると、日本なのに行けないことがわかった。つまり、そこも秘境だった。であれば、ぼくがいの一番に撮ってやろうと思った」

■日本の国旗を踏んで上陸

 2003年、山本さんは尖閣諸島魚釣島に上陸した。政治団体日本青年社が建てた灯台のメンテナンス作業に同行し、彼らの「活動記録を撮影する」という名目だった。

自衛隊海上保安庁に、巡視艇や哨戒機に同乗させてほしいと、何回も打診しました。でも、すべて断られました。それで、尖閣を訪れる唯一残された手段である日本青年社の会長に直談判した。ぼくは写真家だから、現場に行けなければ話にならない。そのためであれば、どんな手でも使います」

 山本さんはさらに沖ノ鳥島南鳥島を訪れた。そして06年、最後に残された国境の島、竹島を訪れた。

 竹島へは韓国・鬱陵(うつりょう)島から定期観光船が出ていた。しかし、日本人である山本さんの竹島行きは繰り返し韓国の海洋警察に阻まれてきた。

 そこで山本さんは「在日台湾人」を装い、さらに韓国の友人たちに紛れ、竹島行きの船に乗り込んだ。

「船を降りたところに日本の国旗があった。みんなそれを踏んで独島(竹島)に上陸するんです。ところが、乗ってきた船は日本の中古船だった。ブラックユーモアだな、と思いました」

 07年、山本さんは16年かけてすべての日本の国境の島を訪れた記録を『日本人が行けない日本領土』(小学館)にまとめた。首相官邸で行った安倍晋三氏との対談も収めた。

「でも、この本を出すのは大変だったんですよ。国境問題? 右翼の街宣車じゃん、って。誰も関心がないから売れないよ、と」

 残念ながら、編集者の予言は的中した。「この本は、ぜんぜん売れなかったんです」。

■「ヘイト本みたいで……」

 ところが、出版から3年後の10年、風向きが大きく変わった。尖閣諸島の周辺海域で中国漁船が海上保安庁の巡視艇に体当たりする事件が起こった。国境に対する関心が一気に高まった。

「あの事件以降、本が売れ出して、結局、6刷までいきました」

 今年も山本さんは北方領土尖閣諸島の周辺を訪れ、最新情報を盛り込んだ『中国・ロシアに侵される日本領土』(小学館)を送り出した。

「今はやりのヘイト本みたいに見られるのは嫌なんですけれど……」

 このタイトルは、前作の経験を踏まえて、何としても「国境の本」を売りたい、という担当者編集者の気持ちの表れだろう。

 山本さんが本書で伝えたいのは「尖閣を守れ」「北方領土を返せ」というスローガンではないという。

「今、日本の国境で何が起こっているのか、現実に目を向けてほしいんです」

(アサヒカメラ・米倉昭仁)