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中断と再開…翻弄された歴史 対日関係が左右、国際情勢も影響<北方領土の日特集~墓参60年のいま>

 ロシアのウクライナ侵攻の長期化で、北方領土返還交渉の早期再開が見通せない中、高齢化が進む元島民から墓参の再開を願う声が強まっている。今年は1964年に北方四島への墓参が始まってから60年の節目。2国間関係や国際情勢に翻弄(ほんろう)されながら、何度も中断を乗り越えてきた北方領土墓参の歴史や意義を特集する。2月7日は「北方領土の日」。(北海道新聞デジタル2024/2/7)

■領土解決は先送り

 東西冷戦が激化するさなかの1964年に始まった北方領土への墓参。日ソ中立条約に違反した45年のソ連軍侵攻で島を追われた日本人の元島民にとって、約20年ぶりの里帰りだった。

 「遺族たちが声をからして叫び続けてきた悲願がいまかなえられた。夢ではないと思うと、胸のうちがジーンとあつくなった」。歯舞群島水晶島で育ち、64年9月に墓参第1陣の班長として根室から帰郷を果たした故舛潟喜一郎さんは、当時の北海道新聞に寄せた手記であふれる思いを語った。

 1956年の「日ソ共同宣言」で戦争状態を終結させ、国交を回復した両国。しかし、領土問題を巡っては、北方四島の返還を求めた日本とソ連の溝が埋まらず、決着は先送りされた。領土問題の早期解決が困難になる中、元島民らでつくる千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟、本部・札幌)などが目指したのが、四島に残る日本人墓地への墓参だった。

日ソ両国の国交回復に向けた交渉に臨む鳩山一郎首相(右端)、フルシチョフソ連共産党第一書記(左端)ら=1956年10月15日

フルシチョフに手紙も

 外務省の資料によると、日本政府は1957年からソ連側に墓参の実現を申し入れたが、ソ連側は「国境地帯であり、外国人の立ち入り禁止区域だ」として拒否。ソ連は60年の日米安保条約改定に猛反発するなど両国関係はさらに悪化が続き、墓参の実現は困難との見方が根強かった。それでも千島連盟は63年に在日ソ連大使館を通じて、フルシチョフ共産党第1書記に墓参実現を求める手紙を送るなど、粘り強く働きかけを続けた。

 事態が急転したのは64年5月、ソ連のミコヤン第1副首相の訪日前日だった。ソ連側が日ソ親善関係のために、四島のうち歯舞群島色丹島への墓参を認めると日本外務省に伝達。ソ連側は「人道的な配慮だ」と説明したが、突然の方針転換の背景には当時、中国との関係が悪化していたソ連側に、日本との緊張を緩和したい思惑があったとされる。

来日したミコヤン・ソ連第1副首相。ソ連側は前日に、北方領土墓参の再開を日本側に伝えてきた=1964年5月14日

■当初は写真撮影も禁止

 墓参での島の上陸は、ソ連の実効支配を認めた形にならないよう、日本人がソ連に入国する際に必要な旅券(パスポート)や査証(ビザ)ではなく、日本外務省が発行する身分証明書での入域が認められた。第1陣の訪問先は、日本側が11カ所を要望したのに対し、水晶島1カ所と色丹島2カ所の計3カ所のみに制限された。現地での写真撮影も認められなかったが、約50人の訪問団が2班に分かれ、根室港から船を使って9月8~10日に悲願の故郷の地を踏んだ。

北方領土への初の墓参団を乗せた下関水産大学の練習船天鷹丸」を根室港で見送る関係者=1964年9月8日(根室市歴史と自然の資料館提供)

■首脳会談の翌年に再開

 ただ、墓参は1968年と、71~73年にソ連側の意向で一方的に中断されるなど、安定的な実施にはほど遠かった。73年に田中角栄首相が日本の首相として17年ぶりにソ連を訪問し、ブレジネフ書記長との首脳会談で再開を要請。翌年からの再開にこぎけつけたものの、76年にはソ連側が突然、墓参の参加者にパスポートとビザの提出を求め、再び途絶えた。

 ソ連側が強硬姿勢に転じた理由は明らかになっていないが、ブレジネフ氏は76年2月のソ連共産党大会での書記長報告で、北方領土返還を求める日本を「外部からそそのかされて、ソ連に対し根拠のない不法な要求を突きつけている」と厳しく批判。当時、ソ連が対立していた米国や中国は北方領土問題を巡って日本の立場を支持しており、米中両国との関係強化を進めていた日本に反発した可能性がある。その後も日ソ関係は改善せず、墓参の中断は10年間続いた。

 11年ぶりに再開にこぎつけたのは、ソ連で「新思考外交」を掲げたゴルバチョフ政権が誕生した翌年の1986年。日ソ間で外相の定期協議が行われるなど対話が活発化し、ソ連側が従来の身分証明書方式での実施を受け入れた。ソ連側は当時、西側諸国との雪解けを目指しており、日本とも関係改善を図りたい思惑があったとみられる。

11年ぶりに北方領土墓参が再開し、歯舞群島水晶島の茂尻消墓地で祖先に祈りをささげる元島民たち=1986年8月24日

■四島訪問、90年代以降に拡大

 1990年代に入ると、日本人が四島を訪れる機会が広がっていく。90年には、ソ連側がかたくなに認めてこなかった択捉島への墓参が初めて実現。さらにソ連崩壊翌年の92年に、新たに日本人と四島のロシア人島民が相互往来する「ビザなし交流」、99年には元島民や家族らが古里を訪れる「自由訪問」が始まり、ビザなし渡航は墓参を含め、三つの枠組みになった。

 北方領土問題の解決を掲げた安倍晋三首相は2016年12月、ロシアのプーチン大統領との首脳会談で、高齢化が進む元島民の負担軽減に向けて、墓参の手続きの簡素化などで合意。17年には、それまでの船による往来に加え、航空機を使った空路墓参が初めて行われ、元島民から「船より早くて良かった」と歓迎する声が上がった。

初の空路墓参で、チャーター機から択捉島のヤースヌイ空港に降り立つ元島民ら=2017年9月23日(代表撮影)

 しかし、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、墓参を含むビザなし渡航は2020、21年は全面中止。さらに22年2月にウクライナに侵攻したロシアは、対ロ経済制裁を発動した日本に反発し、日本人がビザなし渡航の三つの枠組みのうち、ビザなし交流と自由訪問の政府間合意を一方的に破棄した。墓参については合意が残っているが、日ロ関係の悪化で22、23年も実施できず、4年連続で途絶えたままだ。

 安倍氏は18年11月のプーチン氏との首脳会談で、歴代政権が目指してきた北方四島の返還から事実上の2島返還方針に転換して決着を目指したが、その後の交渉は進展せず行き詰まった。ロシアは20年に「領土割譲禁止」を盛り込んだロシア憲法の改正を行い、ウクライナ侵攻後には日本との平和条約締結交渉を一方的に拒否。領土交渉を再開できる見通しはたっていない。

■全面中止は通算18年間

 60年前のスタート以来、北方領土墓参は中断と再開を繰り返し、実施できなかった年は通算で18年間に上る。元外務官僚で、在ロシア日本大使館公使などとして日ロ交渉に関わった茂田宏・岡崎研究所理事長は「ロシアは墓参を人道問題ではなく、対日関係で利用している」と指摘。ビザなし渡航の扱いは「国際情勢が大きく動いたり、日ロ関係の全体状況によって、全く変わってくる」として、日本側が今後も再開を求め続けるべきだと主張する。

 これまでに四島を訪れた日本人の墓参団は、空路墓参を含め、計113回、参加者は延べ5056人に上る。平均年齢が88歳を超えた元島民は、領土返還を願いつつ、何度も中断を乗り越えてきた墓参の早期再開を求めている。(東京報道センター 荒谷健一郎)