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積み重ねた友好、消えない ビザなし交流30年「再び顔合わす日を」

日本人と北方領土在住のロシア人が相互に訪問する「ビザなし交流」が始まってから、22日で30年を迎えた。1992年4月22日、第1陣のロシア人島民19人が根室市の花咲港に降り立った。ビザなし交流は2020、21の両年、新型コロナウイルスの影響で中止となり、今年はウクライナ情勢を巡り、ロシア側が停止を表明した。再開の見通しは立たないが、30年の積み重ねを評価する声は多い。第1陣を迎えた関係者らの話から当時の様子を振り返った。(北海道新聞釧路根室版2022/4/22)

 ビザなし交流は、91年4月に来日した旧ソ連ゴルバチョフ大統領が提案し、日ソ共同声明に「簡素化された無査証の枠組み」と明記されたことが始まりだ。

■枠組みに戸惑い

 今年2月に急逝した宮谷内亮一・千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)根室支部長は当時、根室市総務課長として対応に当たった。宮谷内さんは亡くなる約2週間前、北海道新聞の取材に次のように答えていた。

 「領土問題が動くのではないか、と期待していたから、『無査証の枠組み』なんて予期していなかった」

 この日、宮谷内さんたちは市役所で、共同声明に対する元島民の記者会見の準備をしていた。声明を見た職員たちは「これはどういう枠組みだ」「パスポートは必要なのか」と戸惑いを隠せなかったという。宮谷内さんたちは翌日から外務省とやりとりし、その意味を詰めていった。

■大歓声で出迎え

 ロシア人島民を受け入れるプログラムは、同省と協議しながら道、根室署などと入念に練り上げた。宮谷内さんは「当時の四島には舗装道路もなかったので、日本に返還された方が生活がよくなると分かってほしいと、市内をあちこち見てもらうことにした」。

 92年4月22日午後。冷たい雨が降る中、ロシアの貨客船「マリーナ・ツベターエワ号」は花咲港に接岸し、ロシア人島民たちが笑顔で現れた。岸壁では元島民や花咲港小の児童、市職員ら500人が集まり、割れんばかりの拍手と大歓声で出迎えた。根室吹奏楽部の演奏も歓迎ムードを盛り上げた。

 市民代表で花束を渡した自営業、佐々木夕貴さん(34)は「『ドーブルイ・ジェーニ(こんにちは)』とあいさつしたらとても喜んでくれた。優しい雰囲気の人たちだった」と思い起こす。

 第1陣は4月22~27日の6日間、根室中標津、標津と札幌を回った。根室では市街地や郷土資料保存センター(現市歴史と自然の資料館)、納沙布岬などを見学した。

■対ロ感情に変化

 5月11日からは元島民ら日本側の第1陣が国後、択捉、色丹の各島を訪れた。相互訪問が動き出した中、市民の思いは複雑だった。

 「島を奪ったロシア人を歓迎しないといけないのか」「日本漁船を銃撃したり、拿捕(だほ)したりする人たちをなぜ迎えるのか」。93~96年度に国際交流課長を務めた元市職員の加藤瞳さん(85)の元には市民からの意見が寄せられた。

 加藤さんは日本人とロシア人の間のトラブルに警戒した。「なにか起きたら、せっかく始まったばかりの交流が終わってしまう」

 冷戦時代、ロシア人の根室への立ち入りは原則として認められていなかった。ビザなし交流で出会うロシア人島民の姿は、根室市民の対ロ感情に変化をもたらすことになる。加藤さんは「交流を続け、ロシア人個人と知り合いになるうちに、市民の中から嫌悪感が薄れていった。ビザなし交流は、拿捕と銃撃の海を友好の海に変えたんです」と語る。

 開始から30年。これまでに延べ2万4488人が行き来した。しかし、ウクライナ侵攻に伴う日本の制裁措置に対抗し、ロシアは3月下旬、ビザなし交流の停止を発表した。

 秘書係長としてロシア人島民の第1陣を花咲港で迎えた石垣雅敏市長はこう話す。「交流の積み重ねが無に帰すとは思わない。再び互いが顔を合わせられる日を待ちたい」(武藤里美)