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<ビザなし交流30年>四島側第1陣として日本本土を訪れたロシア人島民 印象が一変/治療に感謝

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 1992年4月、北方領土からのビザなし交流の第1陣として、初めて日本本土を訪れたロシア人島民。高度に発達した社会や日本人のもてなしに感激し、経済など幅広い分野での交流拡大に期待を寄せた。だが、経済協力は進まず、開発が遅れていた島ではロシア政府のてこ入れで整備が進む。30年が過ぎ、制約の多いビザなし交流の見直しを求める声も上がる。(北海道新聞2022/1/3)

 「人生で最も記憶に残る出来事。夜の札幌はキラキラと輝き、外国映画を見ているようだった。完全に異なる世界にいることに気づいた」。第1陣の訪問団19人のうち、現在も北方領土で暮らすガリア・クンチェンコさん(68)=択捉島紗那(クリーリスク)=は初めて見た日本社会の印象をそう振り返った。

 クンチェンコさんは当時、地元紙「赤い灯台」の記者。訪問前、日本人のイメージは「笑顔でずるい人」だったが、優しさや親切に触れ、一変したという。元島民との懇談では温かく迎えられ、思わず涙ぐんだ。「元島民の言葉を覚えている。『ロシアが嫌いだが、ロシア人は好きだ』『現島民を追い出すことはしない』などと言ってくれた」

 98年にビザなしの枠組みで北方領土から患者の受け入れも始まった。ビザなし交流開始時から、日本人訪問団の受け入れを担ってきたセルゲイ・キセリョフさん(69)=国後島古釜布(ユジノクリーリスク)=は、当時中学生だった長男が第1陣として、北大病院でてんかんの治療を受けた。

 キセリョフさんは「医師に感謝し『民間外交の発展で平和条約の締結が進むことを願っている』と手紙を書いた。いま息子は結婚し、モスクワ州で元気に暮らしている」と、交流の意義を強調。今春、30年を振り返る本を自費出版する予定だ。「ビザなし交流とは何かを伝えたい」という。

 ビザなし交流は、ロシア人島民に日ロの経済格差を痛感させ、日本との経済交流を夢見させた。日本政府は人道支援で食料品や医薬品などを送ったほか、発電所や診療所などを建設。だが、経済交流は認められず、2000年代に入ると、ロシア政府の「クリール諸島(北方領土と千島列島)社会経済発展計画」でインフラ整備が進んだ。

 コロナ禍で中断しているビザなし渡航について、ロシア人島民からは早期再開を望む声が上がる。だが、人数や回数、時期など制約が多いビザなし交流以外での日本本土への渡航が認められない中、より自由な「ビザあり」交流を求める意見も出ている。クンチェンコさんは地元の声を代弁する。「ビザなしの枠組みを超えたとき、島民が夢見ている日ロ共同経済活動も実現できるかもしれない」(ユジノサハリンスク 仁科裕章)

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