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日本の降伏文書署名後 1945年9月3日~5日に歯舞群島を占領したチチェリン少佐は「英雄」になった 

北方領土ノート

北方四島上陸・占領作戦には艦船189,400人のソ連兵が参加した』…⑥ 

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命令を誤解して歯舞群島を占領してしまい、結果的に「英雄」となったチチェリン海軍少佐(左)。写真は1945年6月9日、「プロジェクト・フラ」でソ連兵の訓練が行われたコールドベイで撮られたもの。艦船引き渡しを祝うパーティで米海軍の艦長から記念の短剣をプレゼントされた。

歯舞群島上陸・占領は「命令違反」だった

 ソ連軍は日本軍の抵抗を受けることなく、択捉島国後島色丹島をいとも簡単に占領した。9月2日、北太平洋隊司令官は上陸作戦の指揮官レオーノフ海軍大佐に、歯舞群島占領の準備にかかるよう指令を出す。レオーノフ大佐は、国後島にいるチチェリン少佐に無線で連絡をとり「9月3日に行動計画を提出」するよう命じた。

「千島占領1945年夏」(ボリス・スラヴィンスキー著)に、興味深い記述がある。

レオーノフは、太平洋艦隊と北太平洋艦隊の参謀部にチェチェリンあての電報の写しを送ると、次のような追伸を書く。『チチェリンとの連絡は不良。フリゲート艦第六号の無線士は訓練されていない。その結果、チチェリンに対して、1945年9月3日に必要なのは行動ではなくて、計画であることを説明することができなかった』(9月3日付電報第二二〇〇号)

 チチェリン少佐は「プロジェクト・フラ」に参加してコールドベイで訓練を受けた後、アメリカから貸与された護衛艦EK-6に乗船、国後島上陸部隊第2陣を率いて9月3日午前2時、古釜布に到着していた。フリゲート艦第六号はEK-6のことで、「訓練されていない」とされた無線士もコールドベイで訓練を受けたはずである。

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チチェリン少佐が乗っていた護衛艦EK-6。米海軍時代は PF36 Glendaleと呼ばれていた

 命令を受けたチチェリン少佐の行動は素早かった。3日午前4時に上陸部隊を2班編成した。第一班には掃海艇T-273と上陸用舟艇DS-31を使用し、水晶島勇留島秋勇留島を担当させた。第二班には掃海艇T-274、上陸用舟艇DS-34を割り当て、多楽島志発島春苅島の占領任務を割り振った。使用する艦船はいずれも、国後島上陸部隊として古釜布に停泊していた。

 午前9時に古釜布を出港した部隊は翌4日には各島に上陸した。作戦行動の途中で掃海艇T-273は秋勇留島から根室を目指していた川崎船を発見した。搭載ボートを下し、臨検に向かうと、川崎船は浅瀬へ逃げ込んだ。船を拘束し、数えてみると5人の男性、12人の女性、そして5人の子供が乗っていた。脱出を図ろうとした家族は秋勇留島に戻された。

 志発島には日本軍が400名以上いた。他の島にも数十人の日本兵がおり、武装を解除された。上陸部隊は日本兵と武器を積み込んで5日に古釜布に戻った。

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 歯舞群島の占領という命令以上の成果を挙げたチチェリン少佐は、北太平洋隊司令部によって高く評価され、数々の勲章を与えられ英雄となった。2005年には、功績をたたえてロシアの地図では無名だった水晶島の湾にチチェリンの名前が付けられた。

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 日本が降伏文書に署名したのは1945年9月2日である。国際的にもこの日が太平洋戦争を含む第二次大戦終了の日である。チチェリン少佐による歯舞群島の占領は、戦争が終わってから行われたものだった。

 国後島で発行されている新聞「国境にて」は、南クリル諸島(北方領土)の歴史について連載記事を掲載した。その中に「南クリル諸島の占領」という記事があり、こう書かれている。

「ロシア側の文献では、この(歯舞群島の)占領に関する情報はほとんど存在しない。なぜなら、この出来事は日本に対する勝利の正式な日(9月2日)の後に行われたからだ」

   北海道庁長官引継書(1945年10月27日)によると、北方領土を占領したソ連軍の総数は9,439名となっている。択捉島の留別に600名、ソ連軍の守備隊本部が置かれた国後島の古釜布に8,000名、色丹島に600名、歯舞群島には239名が駐留した。