北方領土の話題と最新事情

北方領土の今を伝えるニュースや島の最新事情などを紹介しています。

不可解なソ連軍「戦闘作戦の地図」--択捉島上陸地点が単冠湾に

サハリン・メディアの「今日は何の日 8月11日 南サハリン攻撃作戦が開始された」という記事に添付されていた「1945 年 8 月 9 日から 9 月 2 日までの極東におけるソ連軍の戦闘作戦の地図(ソビエト連邦大祖国戦争の歴史1941-1945:6巻、1963年)」--。北方四島を拡大してみると、択捉島上陸は8月28日となっている。しかも、矢印は「留別」ではなく太平洋側の「単冠湾(年萌付近)」をさしている。上陸地点はオホーツク海側の「留別」であることは、ロシア側資料でも島民の証言でも裏付けられているのだが、この地図は何なのだろうと、以前から気になっていた。あくまで想定した「作戦」で実際は「留別」に変更されたということなのか…。そして歯舞群島の占領はこの作戦地図には含まれていない。歯舞群島上陸作戦について「計画」作成の命令が出たのは9月2日。北太平洋隊司令官は上陸作戦の指揮官レオーノフ海軍大佐に、歯舞群島占領の準備にかかるよう指令を出す。レオーノフ大佐は、国後島にいるチチェリン少佐に無線で連絡をとり「9月3日に行動計画を提出」するよう命じた。無線連絡に問題があり、占領作戦の実行と受け取ったチチェリン少佐は3日午前4時に上陸部隊を2班編成した。第一班には掃海艇T-273と上陸用舟艇DS-31を使用し、水晶島勇留島秋勇留島を担当させた。第二班には掃海艇T-274、上陸用舟艇DS-34を割り当て、多楽島志発島春苅島の占領任務を割り振った。使用する艦船はいずれも、国後島上陸部隊として古釜布に停泊していた。3日午前9時に古釜布を出港した部隊は翌4日には各島に上陸した。(「千島占領1945年夏」ボリス・スラヴィンスキー著) 日本が降伏文書に署名したのは9月2日である。歯舞群島への上陸、占領はロシア側にとって触れたくないことなのだろう。