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紗那国民学校の「御真影」の顛末 ソ連の手で汚されてはならないと奉焼

 択捉島・紗那国民学校の最後の校長を務めた青田武貴さん(故人)が残した「紗那国民学校経過報告」で、青田校長がいの一番に記しているのは「御真影奉護に関する件」だった。

 御真影とは「天皇と皇后の写真」で、各学校には教育勅語の謄本とともに御真影を納める「奉安殿」があった。戦前・戦中の校長や教職員にとって、学校に下賜された御真影の奉護(保管)は命に代えても遂行すべき、最優先の職務であった。

国後島の乳呑路尋常高等小学校奉安所(昭和14年、「戦前の北方四島写真収録集」より)

 「御真影奉護に関する件」では、敗戦の混乱の中で、現地の日本軍や北海道庁、その出先機関根室支庁からの指示はバラバラで、具体的な方法を示さず、ただ「厳重に奉護せよ」というのみだった。こうした中、8月28日にソ連軍が上陸。同30日、根室支庁長からは「島内各学校の御真影奉衛遺憾なき様。尚其の後の模様電話にて回答」という趣旨の電報が発せられている。

 ソ連軍の上陸によって、奉安殿での奉護は難しいと判断した青田校長は自宅に隠し、捜索に来たソ連兵には焼却したと言ってごまかした。昭和22年9月に引揚命令が出て、択捉島から樺太・真岡に移動した際も肌身離さず奉護した。

 しかし、真岡収容所での荷物検査が厳重だったことから、同年9月13日に校庭(収容所は学校だった)で奉焼した。「使役に出ている人々の話では相当検査は厳重なる由と。十時より乗船順に荷の内容検査。終戦二年余の間、奉安し奉りたる御真影勅語、万一彼等(ソ連)の手にてけがされしことあってはと熟慮の上、極秘裏に奉焼し奉る」(引揚日誌)、「終戦後七百五十七日の安泰奉護も空虚しく茲(ここ)に奉焼し御灰を奉持し帰国す」(紗那国民学校経過報告書)と書き残している。

昭和天皇皇后両御真影(出典:『続・現代史資料8:教育―御真影教育勅語Ⅰ』より)

~紗那国民学校御真影奉護に関する経過~

(昭和20年)

8月15日 

日本軍現地部隊長「御真影勅語、その他公文書は即時焼却せよ」

8月17日 

北海道庁内政部長「支庁長から指示があるはず。それまで厳重に奉護せよ」

8月18日 

視学官(道庁の教育行政官)「村長と協議して奉護せよ」

根室支庁択捉島・留別出張所「28日入港予定の海運丸に乗せて根室支庁に奉遷せよ。(同船は国後島沖で沈没)

8月28日 

ソ連軍が留別に上陸。学校の奉安殿に奉護できなくなり、校長住宅内に仮の奉安所を設置して奉護。(ソ連軍からの提出命令に対して焼却済と回答。数回の家宅捜索を受けたが、ごまかした)

(昭和22年)

9月13日 

引揚命令が出て、樺太真岡仮収容所まで奉護したが、荷物の検査が厳重なため奉護不可能と判断。終戦後757日間奉護し続けて来た御真影を奉焼し、御灰を持って引き揚げた。