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<記者がたどる戦争>古里択捉 隣人はソ連兵 北見報道部・水野薫(42)

 2016年9月、父の水野克男(82)と北方領土ビザなし渡航択捉島の紗那(しゃな)を訪れた。北方四島からの強制退去(※1)以降、父にとって68年ぶりの里帰りだった。(北海道新聞2023/10/30)

 「ようやく戻って来られたよ」。札幌の自宅から持参した祖父純男(1993年に85歳で死去)、祖母いね(82年に73歳で死去)の写真に語りかけた。

 6人きょうだいの5番目の父は、国後島で生まれた。帯広営林局で働く祖父の転勤に伴い択捉島に移った。祖父は転勤後、徴兵され、広島県呉市の海軍の施設で働いた。父は小学2年まで暮らしたが、物心ついた時に祖父はそばにいなかった。

 北方領土の元島民らでつくる千島歯舞諸島居住者連盟によると、終戦当時の択捉島の人口は約3600人。45年8月28日、平和な島は、旧ソ連北方領土侵攻(※2)により一変した。

支配下の日常

 2人の兄に連れられた父は、火の見やぐらがある丘から海を眺めていた。「海に3隻ほどの軍艦が停泊していた。丘にはたくさんの大人がいて、『どこの国の軍艦か』と不思議がっていた」。父は胸騒ぎがして急いで家に駆け戻った。

 すぐに旧ソ連軍が上陸し、土足で家に上がり込んできた。終戦間もない島は、男性が徴兵先から戻っていないため、女性や子ども、老人ばかり。祖父も呉市から戻らず不在だった。

 旧ソ連兵やその家族が島に住み始めてからも、祖母は択捉島市街地を流れる紗那川の船着き場で魚の水揚げの仕事をし、食べ盛りの父らきょうだいを育てた。

 秋になれば、洗濯用のたらいですくえるほどサケが捕れる豊かな自然が生活の支えだった。父は「食卓はサケやコマイなどの魚が中心だった。ひもじい思いはなかった」と振り返る。ただ、島の水産加工場は旧ソ連支配下にあった。魚釣りから帰る途中、馬に乗った旧ソ連兵が突然現れ、「大きなサケを捕っていないか調べられて怖かった」。

 父の妹節子(81)によると、祖母は島の暮らしを自ら率先して話すことはなかったが、よく覚えている出来事があった。

 家のそばに穏やかで優しい人柄の旧ソ連人将校の夫婦が住んでいた。子どもがおらず、父を養子にほしがった。日本人が択捉島を離れる直前まで、毎日のように米やパン、菓子を持参して頼まれたが、祖母は断り続けた。

 晩年、当時を思い出し「(養子に)やらなくて良かった。家族だから」と繰り返していた。祖母は私が生まれた翌年の82年に亡くなった。

■再訪心待ちに

 日本人の北方四島からの強制引き揚げは、47年7月から始まった。父と祖母らが択捉島を離れたのは翌48年秋。「突然、島から離れると聞かされてびっくりした。着の身着のままだった」と聞く。祖母はソ連兵のものになるのが悔しかったのか、家にあった蓄音機をおのでバラバラにして埋め、布団も捨てた。

 貨物船の船底に押し込められて島を出た。船に乗るための階段の傾斜が急で、お年寄りや体が不自由な人は、運搬器具「もっこ」で背負われ運ばれた。「人間としてではなく、荷物のような扱いでひどかった」。船内はぎゅうぎゅう詰めで身動きするのも難しく、甲板にあったトイレに行くのもちゅうちょするほどだった。

 樺太を経由し、函館に着いたのは、寒風吹きすさぶ秋の日だった。終戦前に進学で択捉島を離れた父の姉の律子(93)と、営林局に復職した祖父の出迎えを受けた。

 自分の父にとって写真でしか記憶のない祖父との再会だったが、喜びはなかった。「自由に遊べ、なんぼでも魚が捕れる紗那に戻りたかった」という思いの方が強かった。

 択捉島に再訪する日を心待ちにする父だが、ロシアによるウクライナ侵攻などでビザなし渡航再開の見通しは立たない。「生きているうちは難しいかも」。諦めきれない気持ちを抱えながら、遠い古里に思いをはせている。

<ことば>

※1 北方四島からの強制退去 終戦当時、北方四島に住んでいた1万7291人の元島民のうち、約半数が自ら漁船などで脱出したが、残っていた8569人は1947年7~12月、48年9~10月に樺太経由で強制送還された。樺太ではホルムスク(真岡)の小学校などに収容され、衛生状態が悪く、亡くなる人もいた。

※2 旧ソ連北方領土侵攻 1945年8月9日に当時まだ有効だった日ソ中立条約を無視して対日参戦した旧ソ連は、日本がポツダム宣言を受諾した後の同18日に千島列島のシュムシュ島(占守島)に上陸し攻撃を開始。千島列島各地に駐屯する日本軍を武装解除しながら南下し、同28日に択捉島、9月1日に国後島色丹島に達し、同3日には歯舞群島に上陸。同5日までに北方四島の占領を終えた。

<略歴>みずの・かおる 札幌市出身。2006年入社。室蘭報道部、報道センターなどを経て今年3月から北見報道部