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北方領土返還、海部首相はゴルバチョフにあと一歩までどう迫ったのか

 1989年から2年余りにわたって総理大臣を務めた海部俊樹氏が老衰のため1月9日に逝去した。享年91。湾岸戦争の勃発で本格的な自衛隊の海外派遣を決断するなど平成史に足跡を残したが、首相在任中の出来事で同様に歴史に刻まれるのは、ソ連国家元首として初来日したミハイル・ゴルバチョフ大統領(当時)と交わした日ソ共同声明だろう。(SAKISIRU 2022/1/29)

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海部首相秘録『北方領土返還の重い扉が開いた日』#1

 ロングラン会談の結果、択捉、国後、色丹、歯舞の北方四島が平和条約で解決されるべき領土問題の対象であることが初めて文書の形で確認された。

 海部氏は英国のサッチャー首相、ドイツのコール首相からもらったアドバイスを元に、ゴルバチョフ氏に「初めて首脳同士が会っているんだから、ほぐれた本音の話をしよう」と迫り、ついに領土交渉の対象として四島の存在を認めさせた。別れ際に2人で交わした「指切りげんまん」は両国間の閉ざされた重い扉が開いたことを物語っていた。両国の間に領土問題解決の好機が訪れたことは疑いようがない。

ロシア語発音を何度も練習

 海部氏には今から11年前の2011年4月、日ソ共同声明から20年の節目を機にインタビューした。歴史の証人の肉声を記録に残すため、改めて振り返りたい。当時、明らかにできなかった内容も今回、詳細に披露したいと思う。

ドーブルイ・ジェーニ」(Добрый день、「こんにちは」)

「ズドラストビーチェ」(Здравствуйте!、別の言い方の「こんにちは」)

「スパシーバ」(Спасибо、ありがとう)

 インタビュー当時、政界を引退し、81歳になっていた海部氏だが、もう20年前にもなるゴルバチョフ氏にしゃべったロシア語のあいさつを鮮明に覚えていた。教えてもらった言葉の発音練習を何度もしたのだという。

「お互いに閉ざされた(冷たい)北極海の中にいるような気持ちで付き合ってきた相手に、片言でも自分の国の言葉でなんか言おうとしている気持ちがわかればいいと思って、ロシア語の最も標準的な言葉を教えてもらった。それを彼に言うことでお互いにぴりっと感じることがあるんだよな」

 永田町の個人事務所で行なわれたインタビューで、トレードマークの水玉模様のネクタイをして現れた海部氏はそう切り出し、「ゴルビー」(ゴルバチョフ氏の愛称)との記憶を一つ一つよみがえらせていった。

「初対面のとき、ゴルビーは『ロシア語をよくご存じですね』と言ったよ」

 ゴルバチョフ氏が羽田空港に降り立ったのは、1991年4月16日。日本の首相とソ連の最高指導者の会談はそれまで3度あったがいずれもモスクワで行なわれており、ソ連元首の来日は初めて。陸上自衛隊が撃ち鳴らす21発の礼砲の中で、ライサ夫人とともに専用機のタラップに姿を見せ、大歓迎を受けた。都内は2万2000人の厳重警備体制。すぐに皇居に出向き、天皇陛下に対して「長い時間がかかりましたが、ようやく日本に来ることができた。嬉しく思っている」とあいさつした。

 日本国内では絶大なゴルビー人気だった。ソ連の政治体制と経済情勢を立て直す「ペレストロイカ」は若者さえ知るはやり言葉に。初日の宮中晩さん会を報じた当時のテレビニュースは「やはり時の人ということからでしょうか。他の国賓の時には欠席が目立つ閣僚も今日は全員が出席。晩餐会の出席者としては最高の人数となりました」とその歓待ぶりを伝えている。

 晩さん会で天皇陛下が「今日、日ソ両国の各層の間に、相互の理解と信頼を深め、新たな隣国関係を築こうとする熱意が高まっている」と挨拶したように、北方領土問題解決の機運は高まっていた。

サッチャーからの助言

ゴルバチョフをがちがちの石頭の共産主義者とみないほうがいい」

 ゴルバチョフ氏と渡り合うために海部氏が頼っていたのは、G7首脳で6歳上の姉貴分として親交を深めていた英国のマーガレット・サッチャー首相(1925-2013)だった。首脳会談で会った時、海部氏は「ソ連という国をイギリスはどう見ているんだ?教えてくれないか」と聞いたら、「鉄の女」とも言われたサッチャー氏 からそんな人物評が返ってきた。

 1985年、改革派としてクレムリンの主になったゴルバチョフ氏は保守派に切り込んで次々に成果をあげていたが、それは、社会主義体制の枠内での改革であって、決してその枠の外に出ようとしなかった。それでも日英首脳は「人間的にみると嘘は言わないし、できることとできないことをきっちり区別して話す」という点で見解が一致した。

「公式会談が終わった後、サッチャーさんが『トシキ、こっちにいらっしゃい』と言って個室に招いてくれて、僕は願ってもないからサッチャーさんに北方領土問題解決に向けて、知恵をつけてほしいと頼んだんだ」

 決して外交文書に記されることや、もちろん新聞にも掲載されない2人の秘密の会話。サッチャー氏はこう諭したという。

「トシキ、日本にゴルバチョフが来たら、とにかく率直に話しなさいよ」

ドイツに見出した交渉の要

 そしてもう1人、ソ連という国家を相手に行うタフな交渉術についてアドバイスしてくれた人物がいた。

 1990年に東西ドイツ再統一を成し遂げた新生国家初の首相、ヘルムート・コール氏(1930-2017)。このころ、海部氏は日独友好議員連盟理事長(後に会長に就任)として、毎年ボンやベルリンを訪れ、独政界との太いパイプを築いていた。もちろんコール氏もサシで話せる相手。コール氏からは日ソ関係改善の方策について「ドイツとしてできるだけのことはする」との力強い言葉をもらっていたという。

 コール氏は海部氏に、悲願のドイツ統合に向け、長年、クレムリンと渡り合ってきた経験をふまえ、こう伝えた。

「東西分断国家が1つになって前進していくためには、それぞれの国の理解と協力が必要なんだ。だからドイツはソ連を大事にしている」

 ドイツは冷戦時代の象徴でもある国家分断という悲劇を解消するために、国家機能が麻痺しつつあったソ連への経済援助を厭わなかった。その旗振り役こそがコール氏自身だった。

 コール氏からの助言を受けた海部氏は北方領土返還を実現する扇の要は「多額の経済援助」にあると踏んでいた。

「ロシアは援助することによって、心を開かせることがありうる」

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2島先行返還論者との暗闘

 当時、1956年に結ばれた日ソ共同宣言に基づき、歯舞群島色丹島の返還をまず先に目指す「2島先行返還論」を主張する、政界、外務省幹部、メディアが一塊になった勢力があった。ゴルバチョフ氏の訪日が決まった直後から、そうした勢力の人物がかわるがわる官邸を訪れては海部氏に「現状を打破するために、まず2島返還論のほうが領土問題がかたつく」と迫った。その一員の中にはこう力説する者もいた(★筆者注、あえて名前は書かない)。

 海部氏はその人の言葉をこう述懐した。「彼は僕にここまで言ったよ」と前置きしながら。

「総理だから本当のことを言いますが、2段階論でいかなければだめなんです。初めから4島返還と迫ったら交渉が乗り上げてしまいます。だから初めは2島でいいのです。話がついたときに、それじゃあ後の2島を交渉しようと段階的に持っていく。4島の主権返還を撤回するのではなくて、2島返還が決まったらすぐあとに他の2島をくっつけて4島にするのです」

 しかし、海部氏は決して首を縦にふらなかった。北方領土は日本が武力で奪ったり、掠めとったりしたことはない。「前提は4島一括でなければならない。領土問題は法と正義に基づく考え方で解決するんだ」。海部氏は官邸に来る2島先行返還論者にそう反論した。

 こう強調する背景にはゴルバチョフ氏の腹心だった当時のベススメルトヌィフ外相が直接、海部氏に「法と正義に基づく基本的な考え方で交渉をすすめたい」と伝えてきたことも大きかった。地ならしのために、日ソ首脳会談1か月前に来日したベススメルトヌィフ氏は「この問題は政治決断すべき時にきており、わきにおいてはならない」と強調していた。

 当初、組まれた首脳会談の回数は3回だった。成果を出すために大幅に延長された。多くの公式行事が縮小・変更されて、その分、首脳会談に割かれ、会談は計6回開催、対話は12時間以上に及んだ。

 その間、ずっと付き添って海部氏の交渉を支えたのが「ミスター北方領土」の異名を取り、安全保障問題研究会主宰者として北方領土返還運動に尽力してきた末次一郎氏(1922-2001)だった。海部氏に送った交渉術のアドバイスはこんなものだった。(佐々木正明ジャーナリスト、大和大学社会学部教授)

 

海部政権秘録『北方領土返還の重い扉が開いた日』#2

(SAKISIRU 2022/1/30)

海部氏が頼ったもう1つのチャンネル

ゴルバチョフという人は目をにらみつけて物を言っていると、真剣になる癖がある。だからいつもの調子で睨みつけてやってくれ。その代わり、外務省が持ってくる発言要領なんてものは、その日の朝までに読んで、要点だけを頭の中に入れておいて整理して伝え、なんとか合意を取り付けてほしい」

 首脳会談は挨拶を交わした初日を終え、2日目、3日目と回数を重ねていった。ソ連交渉団は連日、1日が終わると、東京港区・狸穴の大使館に集まり、深夜遅くまで反省と翌日の準備のための検討会をやっているとの話も飛び込んできた。多くの日程をこなした最後の作業として、ゴルバチョフ氏も大使館に出向くことさえあった。

 海部氏も日本外務省のソ連(ロシアン)スクールと用意周到に準備し、もう一つのチャンネルとして末次氏も頼った。末次氏は毎晩深夜に首相に電話をかけてきて、独自の情報を教えてくれたという。交渉で「日本側は喋りすぎている」というのもその一つだったという。

「僕はその電話の内容が誰かに聞き取られたら困るなあと思ったけど、末次さんが官邸に来たら記者団に囲まれて『なぜ会ったんですか?』と聞かれるから嫌だというんだ。だから電話にした。末次さんは誰もいないところで1人で電話をかけてきて、さまざまな情報の裏をとって僕に教えてくれたんだ」

 ソ連は歯舞、色丹島の2島を平和条約の締結後に日本に引き渡すことを同意した1956年の日ソ共同宣言の後、「日本領土から全外国軍隊の撤退」という新たな条件を一方的に声明し、公式的には「領土問題は存在しない」との態度を貫き通してきた。この会談では、領土問題が公式的に両国の間にぶらさがっていることを認めさせることが新関係構築の第一歩であり、最大の難関でもあった。

 経済状況の悪化に伴い、その打開策として日本と取引をする--。日本側には領土返還の兆しが見えるかもしれないとの期待感も広がっていたが、実際にはゴルバチョフ氏の出方次第という状況であり、外務省内では「平和条約締結の状況は険しい」という冷静な見方の方が強かった。

ゴルビーに「ダー」(Yes)を言わせた瞬間

 2日目午前、通訳のみで行なわれたバイ会談。ゴルバチョフ氏はポケットからメモを取り出して、海部氏の言葉に聞き入ることがあった。そのメモにはソ連外務省が作った情報がびっしりと書き込まれていた。ぼそぼそと話す中で日本側の通訳がゴルバチョフ氏が「小クリル諸島」(★注、ロシア語で北方四島を指すとされる地名。「南クリル諸島」という場合もあった)とつぶやいたのを教えてくれた。

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 海部氏がじっとゴルバチョフ氏をにらみつけてこう迫った。

「『小クリル諸島』なんて言葉は日本人には理解できませんよ。島にはエトロフ、クナシリ、シコタン、ハボマイと明確な名前があって、これが領土問題の全てであり、この名前を挙げて交渉してカタをつけたら、解決できるんだ。ぜひ踏み込んでもらいたい」

 すると、またぼそぼそとゴルバチョフ氏は通訳に向かって話を始める。海部氏はメモ用紙に島の地図を書いて、シャープペンシルと一緒にゴルバチョフ氏に渡した。「ここがエトロフ、ここがクナシリ……」。そう教えると、ゴルバチョフ氏はそのメモ用紙にロシア語で島の名前を書き記していったという。そのメモを海部氏は受け取った。

「もう二度と小クリル諸島とか、南クリル諸島とか言わないでくれ。われわれが『北方領土』という時はその4つの島のことを言うんだ。まずはそれをアグリーして(認めて)ほしい」

すると、ゴルバチョフ氏は「ダー、ダー」(★注「Да」ロシア語でYesのこと)と返してきた。

「ダーということはOKだからな。それが2日目の1対1会談の収穫だったよね」

 余談だが、ゴルバチョフ氏がロシア語で島の名前を書いたメモは今も外務省に残ってはいないのだろうか?海部氏はその行方を私に教えてくれなかったが、これこそ貴重な歴史上の記録とは言えまいか? 解禁される外交文書とともにぜひ公開してほしい。

ギネスブック”級の厳しい交渉

 話を当時に戻す。2日目のバイ会談の予定の時間を終えた海部氏はゴルバチョフ氏にこう提案した。

「あなたはリーダーとして初めて日本に来てくれた。お互いに合意できる内容に達するまで話し合おう。1回、2回の回数で決めちゃだめだ。そこまでやろう」

 そうして、公式日程は急きょ、変更され、大幅に首脳会談の実施に時間が割かれた。取りやめることが可能な場合は中止となり、後ろ倒しが可能なものは後ろ倒しになった。

 こんな記録も残っている。日本記者クラブでの記者会見は「クラブ史上初 深夜になった」と公式HPに公開されている。長文になるが紹介したい。

「日本記者クラブ始まって以来という出来事になった4月19日未明のゴルバチョフソ連大統領記者会見。時間をものともせず、満場を埋めた290人の出席者が熱心にゴ大統領と質疑を交わしました。(中略)同大統領の記者会見はクラブが半年以上もかけて準備してきたものでしたが、6回とも8回(ソ連側)ともいう首脳会談のあおりを受け、一時は開催が危ぶまれる事態になりました。しかし、ゴ大統領が「私にとってはどうしてもやらねばならなかったこと」と、会見終了後漏らしたように、大統領の強い希望と、当日司会を務めた犬養副理事長らクラブ役員の「何時になろうが受ける」という決意から実現したものです」

 この記者会見で、ゴルバチョフ氏は今回の海部氏との協議について「3日間のきわめて激しい仕事だ」「ギネスブックに収められるかもしれない」と総括した。

「言いにくいことを言うな。君は」

 実際、数々の記録を見ても、2人は相当につっこんだ話を本音で語りあったことが浮かび上がっている。例えば2人のやり取りはこんなふうだった。海部氏はこう振り返った。

海部氏「言いにくいことを言うようだけど、怒らないで聞いてほしい。私と日本国民はソ連という国に大変な不信感を持っている」

ゴルバチョフ氏「何故だ?」

海部氏「どんな条約を作ったって、署名したって、これまで捨てられてきた過去があるんだ」

ゴルバチョフ氏「言いにくいことを言うな。君は」

海部氏「初めて首脳同士がここで会っているんだ。僕はドーブルイ・ジェーニとロシア語であいさつして、そこから話が始まっているんだから、もっとほぐれた本音の話をしよう」

ゴルバチョフ氏「日本の主張はよくわかっている。しかし、外交は互いに譲り合うことが必要だ」

海部氏「日本は四島一括返還以外の話はない。それでもほかにプラスにするものがあるなら言ってくれ」

 すると、ゴルバチョフ氏はソ連側が用意した発言要領を持ってきて、紙を見ながら「大規模な経済協力」「大規模な日本の資金協力」と伝えてきた。

 「ゴルビーはね、確かにその紙をみながらそう読み上げたんだ。そうして、『それが大前提になるんだ。それがヨーロッパでは常識だ』と言い張るんだよ」

後にこの日本側の「協力の展開」の言葉をどう共同文書にいれるかが焦点となる。ゴルバチョフ氏にとっては疲弊するばかりのソ連経済を潤すためのカードでもあったのだ。

小沢一郎幹事長に託した布石

 しかし、この時点で海部氏はすでに手を打っていた。ゴルバチョフ氏が訪日する3週間前、モスクワ入りした当時の自民党幹事長、小沢一郎氏の手腕に託した。官邸を訪れた小沢氏は「交渉するには手土産がいる。用意してくれないか」と海部氏に伝えたという。

 小沢氏は裏交渉でソ連側が多額の経済援助を欲していることをつかんでいた。海部氏は「手土産ぐらいポケットにいっぱい入れるくらい持って行ってくれ」と促し、こう聞き返した。

「どれぐらいの規模でどれぐらいのことを(ソ連側は)伝えてきているんだ?」

すると、「260~280億ドル」(当時のレートで3兆6000~9000億円)だという。これだけの巨額援助を正式な外交ルートで実現するためには、日本の国会で予算を通さなくてはならない。

 海部氏は当時の大蔵大臣、橋本龍太郎氏(1937-2006)を呼んでこの経済支援策について相談した。ソ連側が四島を返すと約束したのなら、空約束ではいけない。小沢氏がモスクワ入りする前に、橋本氏に「君も腹を決めておいてくれ」と言った。

その後、大蔵省内で極秘の会合が開かれ、話をまとめた橋本氏は海部氏にこう返答してきた。

 「総理、これで(筆者注  この巨額経済支援で)長年の問題にカタがつくのであればいいのではないですか?(領土問題解決の)結果が出るのなら、私には二言はありません。しかし、この話を決して外でいってはいけませんよ」(佐々木正明ジャーナリスト、大和大学社会学部教授)