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国後島・泊墓地 クナシリ・メナシの戦いで殺害された和人22人の墓碑があった

 国後島の泊村の要覧(昭和12年版)に興味深い記述がある。村の「名所旧跡」として「松泉寺」が取り上げられている。「泊市街地東通(泊市街地東端高丘)にあり。境内に寛政元年国後騒乱の際夷人の為斃れたる松前藩足軽竹田勘平(当時国後会所の支配)の墓あり。(文化十一年竹田九十九の建てたるもの。西海岸材木岩の天然角材石を用い、西通草叢中埋もれありしを地人之を歎じ、明治二十一年今の地に移せるものなり) 墓碑二十二基。尚境内に国後桜の巨樹あり。本島第一の古木にして五月満開の候遠近よりの観客絶えず」。

 曹洞宗松泉寺は根室の開法寺の末寺で「高丘に堂々の殿堂完備梵鐘楼閣また壮観にして国後第一の大寺院」であった。その境内に、クナシリ・メナシの戦い(1789年)で蜂起した国後島アイヌに殺害された和人22人の墓碑があったという。建てられたのは文化11年(1814年)で、事件から 25年後である。村の西通りの草むらの埋もれていたものを島民が明治21年(1881年)に東通りの松泉寺境内に移したという。

 根室市納沙布岬には「横死七十一人の墓」と刻まれた墓碑が建っている。根室地方で殺害された和人49人と国後島の22人を合わせた71人を追悼する墓碑で、明治45年(1912年)に、近くの珸瑤瑁の浜で発見された。造られたのは文化9年(1812年)で、松泉寺の墓碑はその2年後に建てられている。

 サハリン郷土博物館の研究紀要によると、2003年に同博物館の調査隊が国後島の歴史文化遺産の認定作業を行った際、松泉寺の境内で22の塚のような跡を確認している。サイズは160m×80mで、高さは1mほど。場所は現在、泊墓地として標柱が建っている一帯だ。

 研究紀要によると、墓石は見つかっておらず「おそらく1980年代から1990年代にかけて、地元当局がユジノクリリスク(古釜布)とセルノヴォツク(東沸)の日本人墓地を「改良」したとき、泊墓地にある墓碑のいくつかを移した可能性がある」という。

松泉寺

松泉寺境内にあったカラマツは今も…(サハリン郷土博物館研究紀要から)

サハリン郷土博物館研究紀要から

国後島・泊墓地