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「桜は、干場は」望郷の念 食に満ち 親残し脱出した島は前浜の先に 故郷・北方領土それぞれの思い④

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 「10人も乗れない小さい船だ。焼き玉エンジンから火の粉が出るんで、ロシア人に見つからないようにむしろで隠してね。焼けては濡らし、取り換えてを繰り返したんだ」(北海道新聞根室版2021/9/2)

 国後島爺々岳の麓、留夜別村礼文磯生まれの亀田正二さん(89)=標津町=は13歳のその日、両親らを残して姉、妹と3人で島を離れた。1945年(昭和20年)9月。日付は思い出せないが、夜陰に紛れて根室半島を目指した記憶が、今も鮮明に残っている。「日が沈んで暗くなってから出航したんだ。根室の遠戚を頼ってな。荷物は米3俵だけだった」

 兄3人と姉、妹、弟。祖父と父はコンブを取り、軍馬の放牧もしていた。漁期が終わって正月支度が済むと、造材の仕事にも出た。「じいさまもおやじも仕事熱心。あの辺じゃ豊かな暮らしだったんだ」。前浜だけではコンブの干場が足りず、祖父は裏山を買った。秋にコンブを出荷すると、1年分の米やみそが届いた。「はえ縄を何回か仕掛ければ、船いっぱいになった。食べるものにお金をかけることはなかったね」

 国後島ソ連軍が上陸し豊かな礼文磯も騒然としだした。やっと見つかった脱出船にはあと3人しか乗れず、亀田さんは両親らを島に残し、きょうだい3人で脱出するほかなかった。

 根室の親戚宅では大根やビートの茎のまぜご飯を出してくれた。妹は食べられず、亀田さんと姉とで大根をよけ、代わりにご飯を入れてあげた。両親らと再び会えるかどうかすら分からない心細い毎日。妹は茶わんを手に泣き出した。「あの時を思い出すと、今でも…」と、目に涙が浮かぶ。

 後から脱出した家族と再会できたのは11月。正二さんはその後、標津町忠類でサケ漁にいそしみ、やがて定置漁業の経営者となった。現在は息子に仕事を譲ったが、漁場は家の目の前だ。晴れの日は、前浜の向こうに故郷の島が見える。

 国後島には自由訪問や墓参で幾度も行った。少年時代に漁船から見た礼文磯の風景は鮮明に記憶に残り、家があった場所もすぐに分かる。自由訪問で、祖父が植えた千島桜が枝を伸ばしているのを見つけ、思わず「あった」と叫んだ。

 島への訪問はいつも真夏。草木が深く、家の跡に近づけないことが多い。「小さい頃に見た干場は、広かった気がする。実際はどれくらいだったんだろう」。望郷の念は色あせない。(小野田伝治郎)

=おわり=

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