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『古丹消物語』-- 猪谷さんがつないだ想い

 北方領土にルーツを持つ著名人と言えば、国後島・古丹消生まれの猪谷千春さんだろう。1956年冬季五輪スキー回転競技の銀メダリストだ。「なぜ国後生まれの若者が」と、調べていくうち、古丹消への移住を決意し、島民にスキーの滑り方や板の削り方、独自開発の靴下の編み方まで惜しみなく教え、島民と心を通わせた父親の六合雄(くにお)さんに惹かれていった。

 猪谷さんのことを「国後島のまれびと」と題して新聞のコラムで紹介すると、根室市内の元島民のおばあさん、Mさんが連絡をくれた。昭和20年9月、5歳の時、ソ連軍に追われ古丹消を脱出。小学6年になった頃、父親から「猪谷さんというスキーの先生のうちに行って習った」という靴下の編み方を教わった。毛糸を何本も引き揃えて編むのが猪谷式。「うちは踵にナイロン糸を足して丈夫にした。ポカポカで脱げないから大したいい、と漁師や農家に喜ばれる」と話してくれた。

 「猪谷式靴下を編み継ぐ」と題してMさんのことをコラムに書いた。すると、「私も猪谷さんの靴下を編んでいますよ」と、今度は羅臼のおばあさん、Sさんから連絡をもらった。標津町生まれで、島で暮らしたことはない。国後島・東沸で生まれ育った母親が昭和の初めに標津に嫁いでいた。郵便局をしていた祖母の家族がソ連軍の侵攻を受けて島を脱出。引き揚げ先の標津で一緒に暮らしていた時に、猪谷さんのうちに通って編み方を習った祖母から教えられたという。

 「モノがない時代、綿糸をほどいて3本にして、毛糸に混ぜて編んでいました。そうそう、猪谷さんの家は自動扉だったんですって。おばあちゃんたちが言ってました。ひもの先に石がくくりつけられ、ちょっとさわると自動で開いたそうです」

 昭和4年から6年間、国後島で暮らした猪谷さんは、島民の手を借りて2つの小屋を建てた。最初の小屋は、知床の眺めを楽しむため、海に面してガラス窓をたくさん作った。風呂には温泉を引いていた。ランプの火が元で焼失し、少し離れた滝がある所に第二の小屋を建てた。柾屋根に重しを載せた家々の中で、地下室付2階建て。バルコニーまであった。流しはレバー1つでお湯も水も出た。腰掛け式の便所は滝から水を引き水洗にした。

 この第二の小屋がずっと気になっていた。猪谷さん一家が国後島を出たのは昭和10年秋だが、その後、誰が住んだのだろう。元島民に聞いても知っている人はいなかった。ある時、私のブログで猪谷さんの記事を読んだ女性からメールが来た。「古丹消の郵便局長で温泉旅館を営んでいた私の祖父が、猪谷さんのお世話をしていました」と書かれていた。

 伊東重威さん。古丹消郵便局長として、ソ連軍上陸後、島民45人の集団脱出を指揮し、島民の郵便貯金保全のため原簿類一切を行李に詰めて持ち出し、根室の本局に渡した。公文書に残された伊東さんの証言や記録をコピーして送ってあげた。

 後日、お礼のメールが届いた。「小学校の遠足があると、祖父は早起きして山に入り、木の枝にお菓子が入った包みをくくりつけていました。子供たちが驚き、喜ぶ姿を見るのが好きなお茶目な祖父が、島の一大事に局長として働いた事実を知り、私は誇らしいです。これからの人生、孫であることを大きな糧として生きていけます。あの資料は私たちにとっての宝となりました」と記されていた。

 最後に「第二の小屋は駐屯していた日本軍に引き渡されたと聞いています。おそらく、古丹消で世話をした祖父と猪谷さんとの間で話がついていたのでしょう」と、あった。

 国後島のまれびと猪谷六合雄さんとのつながりで、幾つかの小さな縁が生まれた。みんなどこかでつながっているような気がした。MさんやSさんを講師に猪谷さんの靴下を編み継ぐ講習会ができたらいいと思っている。