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アメリカの仕業ではない、これは津波だ:1952年の巨大津波は色丹島も襲った

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 1952年に北クリルのセベロクリリスクを壊滅させた大津波は、その後、南クリル諸島(北方四島)に到達した。サハリンの著名な作家、アレクサンドル・クテレフは当時4歳半だった。「色丹島津波が押し寄せたのをよく覚えている」と語った。(サハリン・クリル通信2020/11/6「セベロクリリスクの死」より)

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--1952年11月5日早朝。外はまだ暗かった。誰かが窓をたたいた。「誰?」「コンスタンティン・フェドロビッチ(それは私の父の名前だった)、早急に捕鯨場に来てください。経営陣全員が集まっています」と彼は言った。捕鯨場から戻った父は、セベロクリリスクで大惨事が起きたらしいと母に話した。その時は、アメリカの攻撃かと考える人もいた。

 父は再び捕鯨場に行き、戻ってくると、より多くの情報をもたらした。パラムシル島で壊滅的な地震津波が発生したことが判明した。軍は、セベロクリリスクで大勢が死亡したと報告した。彼らは人々に家を出て高台に登る準備をするように言った。当時、情報入手の手段は軍と国境警備隊が使用する無線通信しかなかった。当局は何も発表しなかったため、多くの噂が流れた。ユジノサハリンスクのセンターは、色丹島では海面が上昇するだけで、津波は予想されていないと報告した。父は母に子供たちに服を着せるように指示し、会社に戻った。

母は奥の部屋から食料を取り出し、私(クテレフ氏)と2歳の妹に服を着せた。外に出た。

マロクリルスカヤ湾(斜古丹湾)に注ぐ小さな川は水嵩を増していた。いつもは川幅1mから2mくらい、深さは1.5mほどの川だったが、川沿いの建物を呑み込むほどの高さにまで達していた。近くに、日本人が働いていた製材所があった。労働者たちは、すべての木材が流されるのではないかと心配していた。川岸の小高い場所にトイレがあったが、見えるのは屋根だけになっていた。30分で建物は水没した。人々は走って逃げた。でも、どこへ?

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  あたりを沈黙が支配していた。誰かが「水が引いているぞ」と叫んだ。確かに、海はどんどん後退し、いつものレベルに戻った。後退はさらに続き、これまで誰も見たことがない、石がころがっている湾の底が露出した。明るくなった午前9時ころ、水の動きが止まったかにみえた。次の瞬間、ゆっくりと波が押し寄せて来た。あたりに生命の兆候はない。完全な静寂。カモメも鶏も犬も黙りこくり、抑圧的な沈黙が支配した。

 津波は3回押し寄せた。3回目の津波で、捕鯨場の桟橋に係留してあったタグボートが転覆した。海は大きく波打ち、小船は桟橋に乗り上げた。湾に面して建っていた軍の倉庫が浸水した。夕方までに、すべてが落ち着いた。寒くて風が強かった。日本軍が造ったコンクリート製のトーチカは100〜150mも海に引きずり込まれていた。これが11月5日、色丹村での記憶である。

 --クリル諸島での人々の体験は、アレクサンダー・クテレフの著書「遠い島々--色丹島」で紹介されている。