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南クリル地方の漁業の歴史

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 1945年9月のクリル諸島解放後、主権を確立したソビエトは南クリル地域(北方四島)の漁業の発展に焦点を合わせていた。1950年代初めまでに、ゼレノフスキー水産加工場(小クリル列島のゼリョーヌイ島=志発島に工場があった)、国後島のクリル国境警備隊、ポベダ、サラトフ・リバク、ロディーナ、セルノボツキー、ティアティーノ養魚場、そしてユズノ・クリルスキー養魚場が開設された。色丹島では、クラボザボツコエ(穴澗)に缶詰工場№90があり、マロクリリスコエ(斜古丹)の捕鯨場は後にオストロブノイという名前が付けられた。国後島の南にあるゴロブニノ(泊)には寒天工場と養魚場があった。クラボザボツコエは№90、№97、№86が割り振られた。マロクリリスコエは№17、№24、№96で、国後島の現在の南クリル・リブコンビナートは№85として開設された。(kurilnews.ru 2021/7/9)

 1956年10月19日、ソ連と日本はモスクワで日ソ共同宣言に署名、それは同年12月12日に発効した。これに伴い色丹島のクラボザボツコエの養魚場、カニ工場、マロクリリスコエの捕鯨場は閉鎖された。歯舞群島のゼリョーヌイ島(志発島)のカニ缶詰工場や色丹島の労働者は国後島の他の企業に移されたり、本土に戻って行った。マロクリリスコエで残ったのは国境警備隊とごくわずかな民間人の家族だけだった。

 冷戦下で、ソ連フルシチョフ首相は、日本がスイスと同じような中立的な国家の地位を受け入れることを促すため、2島(色丹島歯舞群島)の引き渡しと、その後の平和条約締結を望んでいた。しかし、日本は米国からの圧力を受けて、平和条約への署名を拒否した。米国は、日本が国後島択捉島の要求を取り下げた場合、沖縄本島を含む琉球列島を返還しないと圧力をかけた。サンフランシスコ講和条約で、沖縄は米国の管理下にあった。

 1960年1月19日、日本は日米安条約に署名した。米軍に対して今後10年間、日本の領土内に軍事基地を置き、使用することを許可していた。これに対してソ連は1960年1月27日、この条約がソ連と中国に向けられたものだとして、2島の引き渡しについて検討することを拒否した。米軍が基地として使用する領土の拡大につながるからだ。

 それにも関わらず、色丹島は1955年以来、4年間事実上空っぽになっていた。マロクリリスコエで残っていたのは4家族だけだった。しかし、1959年、南クリル諸島の漁場で集魚灯を使ったサンマの実験的な漁が始まった。その結果、相当な漁獲量が見込まれることが明らかになった。そして洋上の加工船でサンマの缶詰を製造する技術が開発された。当時、サンマの群れは直接色丹島にやって来た。人類の歴史でしばしば起こったように、いくつかの状況が一致した。日米安全保障条約が、ソ連と日本のすべての予備的な協定を完全に反故にしたことと、突然、色丹島で大規模な漁業を確立する可能性が開かれたことだ。

 政府レベルで色丹島に一時的な処理拠点を設けることが決定された。1960年、色丹島の復活が始まった。政府の政策によって、国後島色丹島の漁業団地の企業は、たびたび再編成された。択後島、国後島色丹島歯舞群島のすべての工場と集団農場が一つになり、いわゆる「水産地域」に統合された時代があった。しかし、この再編は根付かず、すぐに崩壊した。ゴロブニノの寒天工場はロディーナ集団農場、南クリルコンバインに引渡された。

 1990年代、漁業・水産企業は荒廃の時代を経験した。政府は水産加工産業への資金提供をやめてしまった。私たちの南クリル地域も例外ではなかった。1993年には、島々から本土への大きな人口流出が起きた。ここは、空腹で不快だった。それまで1万3000人いた市民のうち、残ったのは8,000人に過ぎなかった。そして、1994年10月の壊滅的な地震とその余波によって荒廃が加速した。

 1999年になってようやく色丹島国後島の歴史の新しいページが始まった。色丹島のマロクリリスコエにオストロブノイ水産加工場、クラボザボツコエにクリリスキー・リバクの支店が進出した。

  次回は、南クリル・リブコンビナートの再生について紹介する。