北方領土の話題と最新事情

北方領土の今を伝えるニュースや島の最新事情などを紹介しています。

昭和39年、羅臼を訪れた猪谷さんは古丹消に残した小屋を探した

北方領土遺産

国後島のまれびと—猪谷六合雄の流儀⑤

 猪谷六合雄さん一家が国後島・古丹消を去ってから10年後の1945年(昭和20)年9月、国後島ソ連軍に占領された。

 それから19年後。1964年(昭和39)、猪谷さんは根室羅臼を訪れている。74歳になっていた。「ないものはつくる」—猪谷さんの流儀は健在で、1962年製のフォルクスワーゲン・デリバリーバンをベースにキャンピングカーを独力で造り、自ら運転してやって来た。車内の壁には寒暖計や湿度計、プロパンガスのコンロがあり、引き出しは全部で30個備え、写真を見るとレコード盤も映っている。陸運局で「ハウスカー」という名称をもらって、旅に出た。 

f:id:moto-tomin2sei:20200612115546j:plain

 社団法人日本オート・キャンプ協会が発行した「オートキャンプ」第177号(2010年11月15日)によると、「1961年71歳で運転免許証を取得。2年後、東京大学の探検隊が南米横断用に使用した、いすゞエルフを改造したのが『トラベルカー1号』」で、日本で最初のハンドメイドキャンピングカーだったという。

f:id:moto-tomin2sei:20200612115613j:plain

 猪谷さんが書いた「雪に生きた80年」に、根室羅臼を訪れた時のことが書かれている。

 1964年7月19日。摩周湖へ向かう途中で、ヒッチハイクをしていた女子大生4人グループを乗せてあげる。その中の1人が根室の人だった。国後島の話をしているうちに、お医者さんをしている彼女の父親が、古丹消で私(猪谷さん)が世話になった材木屋と懇意だったことが分かり、急遽根室に行くことになる。根室の彼女の家に着くと、材木屋の奥さんが待っていた。材木屋に行くと、今度は30年前の小学校一年生の時に、私にスキーを教わったという女性が訪ねて来た。

 7月21日。羅臼に着く。信用金庫の支店長をしていた村田さんの自宅を訪ねた。千島で私にスキーを習ったという人たちが何人も訪ねて来た。計根別の学校の校長も来た。顔を見たら思い出した。18歳の時に、私にジャンプを教わったという。それがもう50歳の髪の薄い校長になっていた。

f:id:moto-tomin2sei:20200612120908j:plain

 「羅臼の村田さん」というのは、1928年(昭和3)から1941年まで国後島の古釜布、植内、乳呑路の各学校で教鞭をとり、戦後は羅臼村の公選初代村長を務めた人だ。村田さんが書き残した「国後島の開拓者たち」(「北方領土終戦前後の記録」昭和47年根室市刊)という随想の中で「スキーの大家 猪谷六合雄氏」と題して、猪谷さんが羅臼を訪れた時の話を描いている。

 『昭和39年に、突然、はるばる私を訪ねて、此の知床までいらっしゃった。それが他人まかせの飛行機や汽車ならともかく、自分で装備された自動車を、自分で運転して(75歳と聞く)来られたのには全く驚いた。若い者顔負けの態だった。羅臼に4晩泊まって、私のかつて住まった処はどの辺だろう、と私にきかれた。私が国後の古丹消はあの崖の下であると詳しく話したら、4日とも、望遠鏡と双眼鏡で懐かしそうに、熱心にのぞいて居られたことは、まことに印象的だった。家のふとんの上に長い旅の疲れを休めてほしいとさそったが、私の車の家の方が気楽でよい…と言って4晩とも車に寝られた。その車は、運転台の直後が机、次が寝台で、その寝台の枕のところが腰掛けになっている。運転台の横がキッチング台になって、左サイドに細工場と写真現像場等がとってある。寝台の足のところに衣料置き場があった。

 私にそっと申されたことは、「村田さん、私の少々の財産は志賀高原にあるが、それを全部売ってしまって、家内と2人で車旅に出ようと思う。車をもう少し改良して…」と案内をうけた。余程旅の好きな人、しかもその旅はさすらいの旅の性質を持っている。今頃は果たして阿蘇に? 十和田に? 阿寒に?、又は紀南あたりに居られるや?。まさか国後やエトロフ迄は行かれまい』 f:id:moto-tomin2sei:20200612122349j:plain

 村田さんの記述によると、「羅臼に4晩泊まって、私のかつて住まった処はどの辺だろう、と私にきかれた。私が国後の古丹消はあの崖の下であると詳しく話したら、4日とも、望遠鏡と双眼鏡で懐かしそうに、熱心にのぞいて居られた」とある。

 猪谷さんがはるばる羅臼まで来たのは、根室海峡を挟んで対岸に見える古丹消に残してきた、自分が造った「滝の下の小屋」がどうなっているのか、確かめたかったからではないか。元島民が、自分のふるさとの島がどうなっているのか、思いをはせるのと同じように。

 

f:id:moto-tomin2sei:20200612121013j:plain

 その時、猪谷さんは「滝の下小屋」を確認できたのだろうか?

その答えは、著書「雪に生きた80年」に出てくる。

 

 『右手はるかになつかしい国後島を見ながらいくつかの漁村を過ぎてついに終点まで行く。羅臼から約20キロ、車をまわして海側の高い岸に寄せて止める。ゆっくりと朝食をしながら2時間ほど休む。何度か望遠鏡でのぞいてみたが古丹消の浜には、もう私の小屋は見えなかった。帰りは左手に国後を見ながら、この島を失ったことをいまさらのように惜しいと思った』(1964年7月23日の記述より)

 

 ソ連による北方四島占領後、せめて先祖や家族が眠るふるさとの島々にお参りしたいという、元島民の切なる願いがかない、北方四島への墓参が初めて実施されたのは、同じ年1964年9月のことである。

 

【猪谷六合雄さんの足跡】

 

f:id:moto-tomin2sei:20200612120355j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20200612120415j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20200612120428j:plain