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『さらば、古丹消』

北方領土遺産

 国後島のまれびと—猪谷六合雄の流儀④

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写真 滝の下の小屋 

 国後島・古丹消で6年間暮らした猪谷六合雄さんは、古丹消についてこう書いている。

「古丹消は島の楽園である。千島特有の猛烈な濃霧(ガス)もここだけは敬遠して通る。春の若草が萌え出るのが、太平洋側より一カ月は早い。多くの種類の野菜が育ち、いたるところから温泉が出る」(「雪に生きる」より要約)

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写真 古丹消湾の家並み
  

 元島民でつくる千島歯舞諸島居住者連盟(通称・千島連盟)が作成した終戦時の居住者地図がある。島ごとの住宅地図である。国後島・古丹消を見ると、1935年(昭和10)に島を出て、終戦時には居住していなかった猪谷六合雄さんの家の所在地も記されている。しかし、この家は、1929年に島民の協力を得ながら建てた「千島第一の小屋」の所在地ではない。

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写真 古丹消の居住者地図 猪谷六合雄の名前がある 

 

 「千島第一の小屋」は、ガソリンランプの爆発による火災で焼失している。1934年4月のことである。1931年に長男の千春さん、1933年に次男の千夏さんが、この小屋で生まれた。医師はおろか産婆さんもいなかった古丹消。近所の島民たちがお産の世話をしてくれた。ちなみに、5月に生まれた千春さんの名前の由来は「千島の春に生まれたから」、7月に生まれた千夏さんは「千島の夏に生まれたから」--いたってシンプルである。

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写真 焼けた千島第一の小屋 

 

 この火事で猪谷さんが一番惜しんだのは、スキー板やシャンツェの図面、靴下や手袋の細かい計算をした帳面、大勢の人の足の寸法を集めてあった書類、写真ネガを焼いてしまったことだった。ストーブの上で干してあった、編み方の試験をしながらこしらえた12足の靴下は黒焦げになって見つかった。

 近所の島民が駆けつけて消火作業にあたった。「ありがたいと思ったのは村人たちの心からの親切である」と、猪谷さんはしみじみ書いている。「何もかもなくしてしまったのに、翌日から生活に困ることはなかった。最初の冬、一緒に小屋に寝泊まりしてスキーをしていた文ちゃんは、その夜一晩寝ないで、子供たちの綿入れの着物を縫って、翌朝持ってきてくれた」

 

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写真 温泉が湧き出る滝

 

 再起は早かった。焼失した「千島第一の小屋」から西へ300メートル、崖から小さな滝が落ちる所に第二の小屋を建てた。火災の3カ月後である。居住者地図に載っている猪谷家の場所は、この第二の小屋、「滝の下の小屋」と名付けられた家である。

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写真 部材は国有林の払い下げを受けて、古丹消にあった木工場で一寸六分角に挽いてもらった。
 

 「猪谷六合雄スタイル 生きる力、つくる力」などによると、「滝の下の小屋」は、猪谷さんが自分で設計して建てた2階建て、地下室、バルコニー付きの住居。猪谷さんが建てた小屋の中で、最も思い入れの強い小屋である。大工仕事もほとんど自分で行った。住材は第一の小屋より細く一寸六部角。滝や近くの温泉から水を引き、便所や風呂、台所などに用いていた。流しはレパー1つでお湯も水も出る。便所は一番景色がいい方にもっていき、大きな窓と机を設けた。もちろん腰掛け式で下は滝から引いた水を流しっぱなし。ここで本を読み図面を引いた。

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 写真 お湯は温泉と水を樋で引き込み、混ぜて温度を調節した

 

 第一の小屋は二寸角の柱を細かく並べて、貫を全く用いず、羽目板に耐力を持たせていた。滝の下の小屋を造るに際して、さらに細い一寸六分角にしたのは、第一の小屋が火災に遭った時、消火作業中に壁を壊そうとしてもなかなか壊れず苦労したからだという。

  当時の古丹消の住宅で、地下室やバルコニーがある家などなかった。島民は珍しがって、泊りに来たという。

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 写真 滝の下の小屋の南側。手前はゲレンデ。左手の端は三方ガラス張りの風呂場 f:id:moto-tomin2sei:20200611142448j:plain

写真 滝の下の小屋の間取り

 

 すっかり気に入っていた古丹消を去る日が来た。1935年9月のことである。著書「雪に生きる」では、「子供の教育その他いろいろな都合で、一時千島を引き揚げようということになった」と書かれている。

 猪谷さんの千島時代に関する資料をあさり始めてから、ずっと疑問に思っているこがある。心血を注いで手造りした小屋は、誰に託したのか分からないことだ。一時的に千島を引き揚げるだけで、また戻ってくるつもりで、空き家のままにしていったのだろうか。お世話になった伊東温泉旅館の人たちが管理したのだろうか。ソ連軍が上陸した後、滝の下の小屋はどうなったのだろうか。 

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 これまで2度、古丹消を訪ねたことがある。いずれも北方墓参だったため、居住地跡を散策することはできず、猪谷さんの小屋があった場所までいけなかった。一度、ご一緒した元島民から「猪谷さんの家に入ったことがある。窓が多く、家の中は収納の引き出しがいっぱいあった」と聞いた。その元島民は90歳だった。遠くから小屋の痕跡を探したが、ロシア国境警備隊の建物があるだけで、小屋の跡らしきものはなかった。

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写真 北方墓参で訪れた古丹消の浜

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写真 古丹消墓地での慰霊祭


 猪谷さんの著書「雪に生きる」の中に「千島時代」という章があり、当時の暮らしや出来事が記されている。古丹消をまさに去ろうという、その時の心持を記した文章を以下に紹介したい。立場、状況は全く異なるが、元島民が島を追われた時の心持と、どこか共通するものがあるように思う。定義上、元島民のくくりには入らないが、猪谷さんもまた「ふるさと」を後にして2度と戻れなかった、元島民の一人ではなかったか。 

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写真 1950年、猪谷六合雄さんと千春さん

 

 『初めて千島へ渡った時、日帰りにするかも知れないつもりで、東海岸の東沸村から、山を越して来てみた古丹消に、私達は、まる6年に余る月日を送った。この間には随分といろいろなことがあった。2人で渡って来た私達は、今4人となって帰ろうとしている。その間には生まれて初めての火事も体験したし、小屋も2つ建ててみた。土の中から湧いて出る温泉というものの本当の味もしみじみと知った。来た時には、浪花節語りと間違えられた村の人達とも懇意になって、親身も及ばない程の世話にもなった。

 今ここを去ろうとするに及んで、滑り回った数々の斜面や、歩いた場所の一つ一つを思い出してみると、何もかも懐かしい気がした。波の音にも、風の音にも、この場所だけの音色があるように思えた。浜へ出ると、毎日見馴れて来た景色の岩石にも、滝にも、牧柵にも心からのお礼を述べて別れを告げたい気持ちだった。村の人達も、私達が帰ると聞いてかわるがわる干し魚のおみやげなどを持って、別れを惜しみに来てくれた。

 いよいよ明日は舟に乗り込むという前の日の夕方、荷物一切を馬車で運び出してしまって、私達もその晩は伊東さんの家へ引き上げることにした。私達は最後に残って、空屋のようにガランとした感じの部屋から部屋を、一渡り見て回ったが、何となく去り難い気持ちがした。一度締めた戸を開けてバルコニーへ出てみたり、二階の階段半分下りてから、また登って行って、もう一遍窓の景色を覗いたりした。そうして暫くは躊躇っていたが、漸く思い直して自分のリュックを背負った。

 私は小屋を出て、門を出て、50メートル程で振り返ってみた。初秋の晴れた日の静かな夕方だった。小屋は暗い岬の崖を背景に、弱い夕陽を斜めに受けて、2階の窓ガラスが2枚だけ西の空を反射して光っていた。穏やかに暮れていく景色の中に、小屋は、しょんぼりと立って私たちを見送っているように見えた。私はそれを見て、どうしても、その僅かな部分かもしれないが、小屋は確かに生きているという感じがした。そしてあの寂し気な様子は、今私達の遠くに去って行くのを悲しんでいる表情に違いないと思った。あれだけ私達が心血を注いで、それこそ根柢から築き上げた小屋だった。どんな隅の方の小さい柱一本にだって、私達の手の触れていないものはない。そうすれば私達の血のどれだけかが、あの小屋のどこかに沁み込んで残っていると考えた方が、本当のように思えてきた。

私達は、またいつか、ここへ帰ってくるかも知れない。だが、もう再び来られない方が多いだろう。私はそう思いながら手を上げて、小屋に向かってお別れをした。すると、自然に涙が込み上げてきて小屋の輪郭がぼやけてしまった。私はその後、赤城山の小屋に別れを告げて乗鞍へ移った時でも、自分が生まれた家に別れようとした時でさえも、何故かこの時ほど哀傷の感を深く味わったことはなかった。

 翌9月2日の朝7時頃、私達を乗せた50トン程の発動機船は、ポンポンと忙しそうな音を立てて船体を揺振りながら、静かに波の上を滑り出した。砂浜まで出て来た大勢の村の人達は、手を振り動かしながら、口々に声を上げて私達を見送ってくれた。その人達のまわりにはたくさんな鳥もいたし、沖の方には鴎も鳴いていた。

さらば古丹消、6年の長い間、私たちの生活を、その懐に暖かく抱いていてくれた寒村古丹消、また逢える日が来るかどうかわからないが、みんな仕合せであってくれるようにと思うと、また目頭が熱くなった』

 

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写真 国境警備隊の建物。このあたりに猪谷さんの滝の下の小屋があった

※写真は「雪に生きる」「猪谷六合雄スタイル 生きる力、つくる力」などから