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「プロジェクト・フラ司令官の報告書」(米国国立公文書館)を読む

 太平洋戦争の末期に、米国が対日戦争に備えてソ連海軍の軍備増強を支援した極秘作戦「プロジェクト・フラ (PROJECT HULA)」--。米国が提供した149隻の艦船はソ連太平洋艦隊に移管され、南樺太朝鮮半島、そして北方四島を含む千島列島の侵攻、占領作戦に使用された。米国国立公文書館(NARA)には、アラスカ州コールドベイで行われたソ連要員に対する陸上、船上訓練の状況や基地施設の整備、作戦の問題点を記録した詳細な報告文書が残されている。

 極秘作戦を指揮したウィリアム・S・マクスウェル大佐の署名がある文書の添付資料として「HULA-2プロジェクト司令官の報告書」(全31ページ)がある。

 報告書の中に「ソ連」という国名は一切出てこない。コールドベイで訓練を受けるソ連側要員は「訪問乗組員」、士官などは「上級訪問者」という言葉が使われており、報告書がまとめられた当時(時期は不明)においても、この米ソ共同の極秘作戦は秘匿性が高かったものと思料される。報告書の中で、ただ1カ所、プロジェクトに参加した訪問師団長が戦後に「ソ連英雄」の称号を授与された、という記述がある。

 「プロジェクト・フラ」は、1944年12月5日、ソ連海軍参謀総長がモスクワ駐在の米軍使節団に、ソ連太平洋艦隊増強のための艦艇と装備のリストを提出したのが始まりだ。リストは船舶、航空、レーダー、音響分野まで多岐にわたったが、1944年10月にスタートした「マイルポスト」作戦で提供する物資との調整が図られた。「マイルポスト」作戦は、日本との戦争に備え、シベリア東部に2ヶ月分の物資を備蓄するためにソ連が米国に要求した物資105万トン分のリストを基にした軍事援助プロジェクト。「マイルポスト」作戦が旧満州での地上戦を想定した軍事援助だったのに対して、「プロジェクト・フラ」は樺太や千島列島といった島嶼部への侵攻・占領を想定した海軍増強支援作戦と位置付けることが出来る。

 フラ報告書は冒頭で「米海軍作戦部長は、訪問乗組員(※コールドベイで訓練を受けるソ連海軍の乗組員を指している)に180隻の移送船の訓練を受けさせるよう指示した。PF(哨戒フリゲート) 30 隻、AM (掃海艇)24 隻、YMS (木造の内燃機掃海艇)36 隻、SC(木造の駆潜艇)56 隻、LCI(L)(大型歩兵揚陸艇) 30 隻、YR(工作船)4 隻、および Yタンカー 8 隻が移送される計画だった。1945 年 3 月 24 日の作戦開始に向けて基地(コールド・ベイ)の準備を整え、1945 年 10 月末までにすべての艦艇を訓練して移送することが指示された。大型艦は 45 日、小型艦は 30 日の日程で訓練されることになっていた」と記述している。

 さらに「このプロジェクトはアメリカ海軍が主導し、訪問側スタッフは訪問乗組員を監督し、訓練と補給期間の終了後、訪問上級将校は基地の司令官と一緒に各艦船を検査する。兵器、機械、設備、艤装の完全性を検査した後、上級将校の署名を得ることで引き渡しが行われる」と説明している。

 「HULA(フラ)」というコードネームが与えられたのは1945年2月21日付の指令による。同2月27日付文書によると、プロジェクトの高度な機密性を念頭に、HULAの動きは物資の移送先等によってHULA-2、HULA-4、HULA-6、HULA-8に分かれていた。このうち、ソ連への艦船の移送と訓練についてはHULA-2とされた。このため報告書の表題は「HULA-2プロジェクト」と表記されている。

 「プロジェクト・フラ」を評して、報告書は「文字通り前例のないものだった。これほど短期間に、これほど困難な訓練条件の下で、これほど多くの船舶を訓練し移送しようとする作戦はこれまでなかった」と書いている。

 訓練と引き渡しの場所がコールドベイに決定したのは1945年2月。計画では、米海軍の訓練要員と最初のソ連要員の受け入れに間に合うよう3月23日までに、軍兵舎と関連施設を利用した基地が修復、設立される予定だった。しかし、同日現地入りしたソ連側の代表者は、お粗末な陸上の訓練施設に失望した。「彼らは経験が浅いため、基礎に関する徹底的な陸上訓練が不可欠」と考えていた。訓練プログラムを準備するための20日間の猶予期間が与えられることになる。

 最も深刻な問題として、悪天候、人員(特に通訳)の不足、10km以上も離れて各施設が分散していたため、あらゆる設備機器の移動と修復が必要だったことなどが挙げられている。

 1945年4月16日に最初の陸上訓練が始まる。「訪問者はレーダーとソナーについてはほとんど何も知らないことが判明したため、移送される船で使用する機器を訪問者に習熟させる訓練は特に集中的に行われた」。8月16日までに8,700人のソ連側要員を訓練し、128隻の艦船を移送した。常時 2,500 人のソ連側要員が予想されていたが、8 月には 6,500 人を収容する必要があった。

 福利厚生施設の充実が図られ、4 つの劇場、2 つのビアホール、5 つのソフトボール場、ラジオ局、図書館が整備され、屋内および屋外のスポーツとゲーム用の設備や釣りと狩猟、湾でのボートツアーなども行われた。7 月にはプロジェクトのドキュメンタリー映画が、米国海軍の認可を受けた写真家によって撮影された。

 日本のポツダム宣言受諾による戦闘停止のニュースは歓迎されたが、「プロジェクト・フラ」には影響しなかった。この時期、訓練と移管業務が集中的に行われ、戦勝祝賀行事どころではなかったという。

 8月18日、ソ連軍は北千島の占守島に侵攻を開始した。「基地司令部は、8 月下旬に上級訪問者から、HULA-2プロジェクトで移送された船舶がラシン(羅津=朝鮮半島)とパラムシル島(千島列島)の占領に役立ったという知らせを受け取り、うれしく思った。上級訪問者によると、これらの船には死傷者は出ておらず、作戦は完全に成功した」と書かれている。

 9月2日は日本が降伏文書に署名した日だが、まさにこの日、6隻の艦船がソ連側に引渡されている。

 「プロジェクト・フラ」による艦船の移送を取り消す指令が出たのは1945年9月5日の15時10分である。前日の4日にも4隻のPFが移送されている。陸上訓練10日間、船上訓練はわずか1日という「駆け込み」移管だった。この時点で、移管予定の 180 隻のうち 149 隻が乗員訓練を受けて移管されており、これは全体の 83% に相当する。

 報告書は「基地では12,400人の訪問者に陸上訓練を実施し、149隻の移送船の訓練を、船上で一人の重大な死傷者も出すことなく実施した。当初の指令ではわずかな陸上訓練が必要とされたが、すべての艦載装備の基礎について徹底した指導を行うことに成功し、太平洋での戦闘が終わる前にコールドベイを出港したすべての艦船はあらゆる点で、その使命を遂行する準備が整っていた。全員のたゆまぬ努力と協力により、このプロジェクトがこれほど短期間でこれほどの成功を収めて完了したことは、いくら評価してもし過ぎることはない」と結んでいる。

 コールドベイ基地は1945年10月1日に閉鎖された。

◉艦船のタイプ別、月別の移管船舶数

◉プロジェクト・フラにより樺太南部と千島列島の上陸作戦で使用された米国艦船

8月16日の樺太塘路上陸作戦に投入されたソ連艦隊29隻のうち6隻

8月20日樺太・真岡上陸作戦に投入されたソ連艦隊34隻のうち6隻

8月23日-25日の樺太・大泊上陸作戦に投入されたソ連艦隊10隻のうち9隻

8月18日の北千島・占守島上陸作戦に投入されたソ連艦隊45隻のうち20隻(上陸用舟艇16  隻、掃海艇4隻)

8月20日の北千島・占守島岡上陸作戦に投入されたソ連艦隊7隻のうち1隻(掃海艇)

8月28日-9月5日の北方四島上陸作戦に投入されたソ連艦隊18隻のうち11隻

※1945 年 8 月にサハリンとクリル諸島の上陸作戦に参加した軍艦と補助艦艇の注釈付きリスト(サハリン郷土博物館紀要3より