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邦字新聞「新生命」に見る北方領土・南樺太からの引揚 ソ連のプロパガンダ

『新生命』はソビエト連邦極東軍管区によりユジノサハリンスク(1946年に豊原から改名)で、唯一存続していた日本語日刊紙『樺太新聞』がソ連当局により閉鎖された後、1946年に発刊された。新聞には「日本人住民への赤軍の新聞」と記載されている。同紙はソビエト当局からの情報を南樺太と千島列島として知られる南サハリンとクリル列島の日本人住民に伝える役割を果たした。地元の情報、タス通信配信のニュース、日本共産党関連ニュース、ソ連共産党紙『プラウダ』からの論説の翻訳を掲載した。ソビエト連邦極東軍管区は『新生命』を厳しく検閲した。(フーヴァー研究所のHoji Shinbun Digital Collectionより)

 以下、新聞「新生命」に掲載された引揚関連のプロパガンダ記事をいくつか紹介する。

真岡収容所前の広場で野球に興じる日本の子供たち

真岡収容所と日本人帰国者たち

収容所で元気に遊ぶ日本の子供たち

◉「新生命」1946年11月16日付

「日本への帰国者収容所を訪ねて 食事は無料で十分 文化生活にまで留意」

 眼下に満々とした海を臨む高い丘の上に数戸の大きな建物と防寒設備が完全な天幕とが木々に囲まれて建つ。これは日本へ帰国する人々が、やがて入港する汽船を待つ間の収容施設だ。

 晴て透きとおるような冬の陽を浴びながら建物近くの庭には愉快そうに元気よく語り合う人々や遊び戯れる子供の群れが眼につく。まだ日は浅いが、収容所生活によく馴染んだ人々の姿だ。玄関の傍らに立つ人々に近づいて「今日は」と言葉をかけると、われわれの突然な出現に、最初はチョッと驚いた様子を見せたそれらの人々はすぐ「今日は」と挨拶を返し、打ち解けた態度で、いろいろの話をした。

 ここの生活は如何ですか?との問いに、樺太石炭トラストの自動車運転手だった島田さんが真っ先に「短期滞在者のためには申し分なく設備が整っています」と答えた。その後を引き継いで同じく樺太石炭トラストに働いていた炭鉱技士及川さんが笑顔で「自分達は本当に温かく迎えられました。みんな風呂へ入り、これは集団生活にありがちないろいろな病気を予防するソ連当局の御厚意として、一同が感謝しています」と語った。

 さて、建物の内部へ入ってみる。部屋数は相当に多く、その一つ一つには板寝台が備えつけられ、どの部屋も明るく、沢山の収容者がいるにも拘わらずチリ一つなく奇麗だ。廊下と部屋の隙間に、荷物が整然と置かれている。帰国者の殆どは携帯荷物一人百キロを携行して、衣類、寝具、途中必要な身の回り品を持ち込んでおり、銘々が、日本までそれらを携帯していくのだ。パンや缶詰などの食糧品は壁につけられた板棚に行儀よく並んでいる。

 われわれの周りに集まった人々に「食事はどうですか、十分ですか?」と訊いてみる。「ええ、十分です。よく食べますがみんな無料です」とユージノ・サハリンスク市木材工場の労働者だった松本さんが即答した。

 収容所内の三つの炊事場では、一日三食温かい食事を調理する。試みに十一月十二日の一日配給量を示せばパン、六百五十瓦(グラム)、魚二百五十瓦、米百瓦、豆百瓦、開鰊百五十瓦、黍六十瓦、砂糖二十五瓦、その他調味料。この材料による同日の献立は朝食「豆のピューレ=豆をつぶして料理にした主食、パン、茶と砂糖」。昼食「黍と魚のスープ、米飯とパン」。夜食「開鰊、パン、茶と砂糖」。このほか、毎日ヴィタミン剤が配給される。

 これについて及川技師も「パンは班長の手で配給されます。食事が十分なので栄養については少しも心配はありません」と語った。

 収容者の健康には、ソヴィエツト機関が特に大きな配慮を示し、治療所と病院が設けられ、眼科、耳鼻科、内科、外科の治療に当たるほか婦人、小児の診療所もある。病院には入院患者が僅か五人だけだ。それも慢性疾患者で、出発まで行き届いた看護と十分な治療を受けるわけだ。

 ここで、病院への初入院患者についての珍しいニュースを伝えよう。それはホルムスク市居住の阪内ミツエさんといい、収容所へ入ったその日のうちに産気づき、病院へ運びこまれたのだった。そして無事に男の子を生んだ。現在、産婦、赤ん坊ともに看護婦に見守られながら健康で元気だ。

 収容者の文化生活の点にも大きな注意が払われ、消毒室もあれば温湯シャワーの設備もある。また映画設備もあって、もう何回となく映画を見せて人々を喜ばしているし、簡単な講演や報告が行われ新聞も入れられて無聊を慰めている。

 細かいところまで気を配る…こうしたソヴィエツト機関とソ連軍の不断の心遣いに、日本への帰国を待つ人々は一様に深い感動を覚えている。ユージノ・サハリンスク市製紙コンビナートの守衛だった新間さんは「われわれへの厚いご配慮に対して何と申し上げよろしいか分かりませんが、ソヴィエツト政府有難う」と収容者一同の気持ちを代表して感謝を表明した。

◉「新生命」1947年1月7日付 

さよなら大変有難う 帰国者の歓呼大地を揺がす

 第一回の帰国日本人が日本に出発してから短い時間しか過ぎぬのに収容所は再び第二回帰国者の元気な声で賑わった。迎えの汽船がホルムスク港に入港するまでの十余日間、帰国者達が文化的な生活をおくるためにソ連当局の大きな配慮は示され、収容所での十余日間に五十五回の報告会が開催され、ソ連映画と日本映画が上映された。所内に取り付けられたラジオからは毎日、日本語の放送とロシアの或いは日本の音楽が流れだし、また特別設けられたスピーカーからは咽喉自慢、腕自慢の帰国者達の唄や音楽が各室に送られて耳を楽しませてくれる。新聞「新生命」も配達されている。特に帰国者達の発議によって発行された壁新聞は収容所の生活を良く表して好評を博した。

 窓外には吹雪が荒れ狂い波頭は白く岸壁に砕けて響き渡っているが、収容所の中は帰国者達の演芸会で暖かく賑わっている。菊地花子さんや寺岡●子さんの素晴らしい歌に、瀬尾たきさんの三味線に帰国者達は恍惚と聞き惚れ、太田●男さんの楽しい声には拍手が幾度も送られ、帰国後の不安な生活をこの数時間だけは忘れて過ごしたのであった。

 待ちに待った汽船の姿はガスに煙る洋上の彼方に姿を現した。この日収容所の中で開かれた集会に三千名の人々が参集し一年有余の南樺太での幸福な生活に、人々は偉大なスターリン元帥に深甚の感謝を述べ一緒に生活したソ連の人々に別れの挨拶をおくったが、先ず岡武夫さんは大略次のように演説した。

 ソ連の優れた民主主義の生活をわれわれは体験した。即ち民族の平等、男女平等の権利、労働と休暇の権利など、このような権利をソ連人同様われわれ日本人にも与えてくれたソ連邦に感謝を捧げ、帰国に当たりスターリン大元帥のご健康とソ連邦の発展を衷心から祈るものである。

 次いで国枝晃さんは感激に満ちた声で「偉大なるスターリン大元帥万歳」を叫び、集会の人々もこれに和して嵐のごとき歓呼は会場を圧するほどであった。これに応えてソ連当局代表者は人々温かい言葉で「無事に帰国すること希望する」との挨拶をおくった。また、この集会で偉大なるスターリン大元帥へ感謝文をおくることを提議し全員の「賛成」の声に工藤誠さんは感謝文を読み上げた後、白絹に三五九名の代表者が署名した。そのほか知識人、学生、教師の団体からも、このような感謝文と、また数百通の個々の感謝文が収容所指揮官に手渡された。

 激しい吹雪と荒海は帰国者の乗船を二、三日妨げたが、前回同様老人子供は港まで自動車で送られた。岸壁には間宮丸、白龍丸、宗谷丸、北朝鮮が横たわっている。船長、船員は一様に帰国者の良好な健康と沢山な荷物に満足な瞳を注ぎ、乗船の際の組織の良さに称賛を呼び起こした。船員達は日本の状態について語った。

日本は現在大変困難な状態にある。食糧、燃料は不足し、勤務者の賃金は安く、それと反対に闇値は益々高くなる一方で失業者が町に氾濫し、遊郭は盛んになり日本人はこのような状態を「竹の子生活」と言っている。

 帰国者の引き渡しは終わった。ソ連軍当局代表者は岸壁で見送る。上甲板に並んだ帰国者達は感謝を込めて絶叫し、帽子をハンカチをちぎれよとばかりうち振った。「左様なら大変ありがとう」岸壁では無事に祖国へ帰れかし、幸多かれと祈る人々がそれに応えて「どうぞご無事に」と叫ぶ、数千人の感激の声は●頭を圧する。別れを惜しむ声はいつまでも続く。やがて錨をあげた船は一隻づつ静かに日本目指して出帆した。

◉新生命1947年1月7日付

配慮に感謝 第二次帰国者集会の演説 南樺太州民政局教育部督学官

 今回、私共の帰国に際し、ソ連邦御当局の数々の御配慮は一同感謝感激のほかありません。短期間にも拘わらず、数千人の人々を各地から迎え、或いは保健衛生に、或いは各種の慰安に、かくも迅速且つ周到に取り運ばれたこと、荷物も百キロまで携帯を許されたことは誰もが想像することも出来なかった厚遇と信じます。一九四五年八月以来、私共はソ連邦の治下において、真の民主主義を学びました。即ち各民族の平等、男女の平等権、労働権及び休息権の尊重、潤沢なる食糧の配給、多額の賃金、俸給の支払い、教育の尊重並びに普及、各種文化施設の広汎なる利用、またあるゆる産業の飛躍的増強等、嘗ての日本に於いては見ることを得なかった政治を体験致しました。私共は茲に於いてこそ、真の生活の意義を見出し得たのでありました。いまや日本に於いては食糧問題をはじめとして土地問題、賃金問題等混沌たるものがあることを知っています。日本に帰る私共は従来の日本の誤れる帝国主義、および資本主義的政策に鋭い反省と批判を加え、いままでに学び得たソ連邦の制度の精神を基調として平和なる日本の建設に邁進し、以ってソ連邦御当局の御厚情と御配慮に応えたいと存ずる次第であります。終わりに臨み世界平和の鍵、ソ連邦—偉大なる世界の指導者スターリン大元帥の御繁栄と御健康を祈るものであります。

◉「新生命」1947年1月7日付

スターリン大元帥へ帰国者の感謝文

 偉大なるスターリン大元帥閣下! 我々南樺太在住日本人がいま帰国するに際し尊敬する閣下にこの書簡を奉呈することを無上の光栄に存ずるものであります。

 顧みるに一九四五八月、戦争の惨苦から吾々を解放し渇仰久かった平和を我々の手に還元して下され爾来一年数カ月に亘南樺太に於いての生活につき民族の差別なく我々の予想もしなかった御温情溢るる御配慮を賜りましたことは終生忘れ得ない感激であります。茲に深甚の感謝の意を表する次第であります。

 この物質的に精神的に我々の生活に与えられました恩恵は優れた真の民主主義国ソ連邦の民族の友誼を如実に示すものであり偉大な元首である閣下の高邁なる御信念と御指導に基づくものと確信し満腔の敬意を表するものでありまして、今我々は心底を衝いて湧き上がる感謝の激情を抑えることができません。

 この感謝の念は祖国日本をして真の民主主義国家たらしめるための憂国の至情に大きく拍車するものであります。我々はいま閣下の御深甚な御配慮によりまして懐かしい日本へ帰ることになりました。然し祖国に待つものは食糧不足に加うるに失業恐慌であることを我々は十分認識しています。故に帰国の上は閣下の御指導の下に学び得た貴重な体験と知識により新しい日本、即ち我々同胞の幸福な生活を築くための民主主義国家建設と更にソ連民族との不動の友誼確立のため努力することを固く誓うものであります。

 帰国者収容所において御当局は我々に種々御高配を寄せられ毎日の食事を無料で給与して戴いたのをはじめ健康にまた帰国後の生活に対しても御配慮を戴き多くの荷物携帯にまで一切に御世話下されたことに対して衷心から御礼申し上げる次第であります。

 尚引続き南樺太に残留する同胞及び今後の帰国者に対しても我々同様に御懇情を賜はれることを確信するものであります。

 最後に閣下の御健勝とソ連邦の●●並びにソ連民族の幸福を謹んで祈念致します。

 スターリン大元帥万歳!

 親愛なるソ連国民万歳!

 第二次帰国日本人代表者

この感謝文は一九四六年十二月三十一日に三千名の集会で採択された。

◉「新生命」1947年1月7日付

皆さんお元気で ソ連軍当局代表の演説 

 皆さん!只今、ソ連邦とソヴィエツト軍及び国民の指導者偉大なるスターリンに関して述べられた皆さんの親切なお言葉に対して深く感謝しているものであります。

 あなた方はソ連邦に一年間以上居られましたが、その間にソヴィエツト軍とソヴィエツト当局とは戦争後の困難な状態にも拘わらず日本人住民に対しては絶えずお世話を致し皆さんが常に安心はて生活し楽しく仕事が出来るようにとあらゆる手段を取って来たのでありました。その間にあなた方はソヴィエツト民主主義の原則を実際に知られるようになったのであります。即ち、ソ連制度化の労働には搾取がないこと、男子と女子とし事実上政治的及び経済的に平等であり、また諸民族は平等でその文化と習慣とを尊重すること等を現実にご覧になったのであります。

 あなた方は日本の神社に参拝することが出来ましたし、お寺に参詣することも出来ました。また学校や家庭では母語で勉強し、日本映画を観ることも出来ました。更に日本音楽を聴き日本語の文書を読むこと等も出来たのでありました。

 私達はあなた方が帰国してから日本国民にソ連邦とその平和を愛する外交政策とソヴィエツト軍の高邁な目的と他民族尊重に基づいたソヴィエツトの民族政策等をお話になることと思います。

 ソヴィエツト軍とソヴィエツト当局とはあなた方が道中御無事で帰国されんことを望んでいるものであります。そして帰国の後あなた方は他の進歩的な日本人と共に新しい民主主義日本の建設者となることを望んでいるのであります。全世界における民主主義的な民族間の永久強固な正義の平和万歳! 偉大なるスターリン万歳!

◉「新生命」1947年1月7日

帰国者の日記 収容所にて 

 収容所では食事が無料で配給され、完備された病院では毎日多くの人々が感染病の予防注射を受け、不安は全くない。また毎夜演芸会が開かれ声自慢の競演やその他映画、講演などで愉快な夕を送っている。どの室からも夜更けるまで笑い声がつきない。その情景は楽しい家庭以上の明朗さを思わせる。そしてやがて安らかな眠りに入るのである。

 入船の日が迫って来た。乗船決定の日の前日は流石に忙しい。乗船切符が渡され、十数日の生活に親しんだ室に一抹の感傷を抱きながら荷物の整理が手早くはじめられる。屋外では数台のトラックが大きな荷物を続々と埠頭へ運んでいる。紅い腕章の班長さんが大きな声で指図しながら走り回っている。人々はこの指図に従って荷物をトラックに積み込んでいる。「明日乗船」の喜びは重い荷物も軽々と積み込まれ収容所の周囲に大きな山を築いた沢山の荷物は次ぎ次ぎと崩されて行く。「こんなに沢山の荷物を持って帰れるとは思わなかった」「荷物の運搬にまでソ連当局は心配してくれる。本当に有難いことだ」人々は感謝を込めて語り合っている。

 乗船の日の前日午後から帰国者全員の大集会が開かれた。雪はやみ新たな生活への首途を祝福するかの御敷く陽光きらめく中を数十人の人々は屋外集会場に行進した。集会場から一眺できる水平線上にポツンと船影が見える。入港の許可を待つ帰国者の輸送船である。群衆の鋭い眼差しは一様に沖合に向けられた。やがて大示威集会の挨拶に次いで、帰国者代表は次ぎ次ぎと起ち、戦争の惨苦から吾々を解放し、一年数カ月間の南樺太における温情溢るる援助と厚遇に対しスターリン閣下への感謝と帰国後における正しい民主日本建設への闘争の激しい決意を披歴する度に嵐の如き拍手は集会場を圧し、帰国者代表のスターリン大元帥への感謝奉呈文には数百名の人々が欣然と署名したのである。又数百通のソ連当局への感謝文も提出された。次いでソ連軍当局者により帰国者への送別の挨拶が贈られ「どうぞお元気で新しい生活のために闘って下さい」の温かい思い遣りに感謝の拍手が巻き起こり、最後に嵐の如き「スターリン万歳」をもつて大示威集会を終った。

 荷物の運搬は集会後も続けられ、南樺太最後の夜のとばりは人々の心を明日の乗船の歓びに湧き立たせながら静かに収容所を包んで行った。

◉「新生命」1947年3月8日付

ソ連領からの日本人帰国 順調に進捗

 タス特派員はソ連邦領土からの日本人帰国問題をソ連邦内閣所属の帰国事務管理局に問い合わせたが、この質問に答えて同管理局では次の如く伝えている。

 ソ連邦政府は一九四六年十月、ソ連邦領土から日本へ日本人捕虜と住民の帰国を開始する決定をした。

 一般の人々は自発的な意志によって帰国できるのである。帰国の実施は、ソ連邦内閣所属帰国事務管理局長エフ・イ・ゴリコフ上級中将に一任されている。帰国問題に関し、日本駐在アメリカ占領軍司令部との協定が締結された。

 その相互協定で毎月の帰国者数はその運輸能力に基づいて決定されている。

 一九四七年二月十五日現在ソ連邦領土及びソ連邦管理下の領土から十四万五千名以上の日本人が帰国した。

 帰国は決定された順序に従って続けられている【タス】

◉「新生命」1947年4月8日

轟く感激の万歳

【ホルムスクにて特派員発】

四月四日、乗船の日が来た。日本の引揚船大隅丸、雲仙丸は既に入港している。帰国者の荷物はその前日に波止場に送られていた。

 午前七時から帰国者達は波止場行きの自動車に乗り始めたが、ソ連軍当局の温かい心遣いで老幼婦女子が優先的に出発して行く。ソ連軍の将兵は老幼婦女子の乗車を親切に援助したのであった。収容所を出発する人々は収容所指揮官や見送りの日本人に「さようなら、さようなら、お世話になりました。ご親切にありがとうございました」と名残り惜しげに別れを告げた。全帰国者は続々波止場に到着した。ソ連将兵は老幼婦女子が自動車から降りるときにもまた手助けした。大隅丸は岸壁に横着けになり船員は梯子を下ろした。乗船が開始された。帰国者は絶えずソ連当局者、ソ連将兵に厚い感謝の言葉を叫び「スターリン大元帥に感謝します」の歓呼が感激的な波止場の空気を打ち震わしている。帰国者は全部乗船し貨物の積み込みは三十分で終わった。船のいかりをあげてから数分の後、船は静かに岸壁を離れた。人々は最後の別れを告げるために甲板にあらわれ、頭越しに首を伸ばし手を振り、岸壁で見送る人々に別れを叫んでいた。

 出港の汽笛が高く鳴り響いた。船は次第に遠ざかって行く。手を振る人々の姿はぼんやり見え、別れの声もかすかにきこえ、やがて引揚船は薄闇に包まれて水平線の彼方に姿を消した。

◉「新生命」1947年4月10日

社説 日本人住民の帰国

◉「新生命」1947年5月31日

スターリン閣下へ感謝文を捧ぐ 日本人帰国者の大集会

◉「新生命」1947年9月2日付

南樺太に平和訪れて早や二年 日本人住民が語るソ連政府の限りなき配慮

我々はなぜ南樺太永住を決意したか

◉「新生命」1947年10月14日付

引揚者の生活実態は 豚箱に住むがまし 日本国内の窮乏激化

◉「新生命」1947年12月9日付
ソ連からの日本人引揚 協定以上進捗 ソ連邦の誠実な義務遂行ぶり

◉「新生命」1947年12月25日付

見よ、日本人引揚者の惨状 運命のままに放任 日本政府と米占領軍の冷酷