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亡き母浮かぶ「女工節」 国後島出身・富山末子さん(82)=根室市<四島よ私たちの願い 日ロ交渉停止>48

 「缶詰工場に2度来る者は 親の無い子か継母(ままはは)育ち 親の無い子は泣き泣き稼ぐ アラ監獄部屋より まだつらい」

 国後島出身の富山末子さん(82)=根室市=は、労働歌「根室女工節」の節を口ずさむと、母の故・佐藤コマさんを思い出す。「幼少のころ、背に負われながら聞いた寂しそうな歌声がよみがえるのです」(北海道新聞根室版2023/12/23)

 根室女工節は「女工女工とみさげるな」の歌詞で始まる。故郷を思ったり、仕事の過酷さを歌ったりした内容が100番ほどあり、早朝から深夜まで働く女工が、気を紛らわすために歌ったとされる。

 富山さんが、たくさんの歌詞の中で「親の無い子は泣き泣き稼ぐ」という歌詞に深い思いを抱くのは、自らの体験を重ね合わせるからだ。

 父は富山さんが1歳になる前、カニ漁船の転覆事故で他界した。それから母は一家の大黒柱に。富山さんを背負い、カニの缶詰工場で働き、一家の生計を支えた。「女工節はいつ聞いてもジーンとくる。母は国後島の工場でカニを缶に詰めているうち、指の先の皮がむけて痛かったと話していた」と涙ぐむ。

 戦後、家族はソ連軍に侵攻された国後島を離れ、釧路管内へ。小学生のころ、根室に移り住んだ。貧しく、厳しい戦後だった。「戦争は国と国がせざるを得ずに始めるとしても、巻き添えになったひとりひとりの住民への責任を国は真摯(しんし)に受け止めてほしい。第2次世界大戦もウクライナの紛争も同じだ」と語る。

 母が55歳で亡くなったのは、50年前の1973年。国後島爺々岳(ちゃちゃだけ)が噴火した年だった。「母を亡くし、支柱を失ったようだった」と語る。

 故郷の国後島は98年と2014年に訪問。四島への訪問が難しくなった今も国後で懸命に働いた母のことを思い、こう語る。「四島は日本の土地なのだということは言い続けていかなければならない。一生懸命、今まで訴えてきたのだから」(松本創一)