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北方領土「最後の木造日本建築」焼失 日露交流の場目指すさなか

 北方領土に残る「最後の木造日本建築」といわれる択捉島の「紗那(しゃな)国民学校」(旧紗那尋常高等小学校)の校舎が17日未明、焼失した。択捉島在住のロシア人から千島歯舞諸島居住者連盟(札幌市中央区)に連絡があった。出火の原因は不明。地元紙「赤い灯台」が電子版に掲載した写真によると、ほぼ全焼とみられる。かつて校舎で日本とソ連の子どもたちが学び、今後、日露交流の場とする構想もあった。(毎日新聞北海道版2023/1/18  本間浩昭)

 校舎は、1938年秋に新築再建された築84年超の平屋建ての木造建築物(延べ床面積約450平方メートル)。択捉島紗那(現在はクリル地区最大の都市・クリリスク)の中心部に近い紗那川の河口近くにある。三つの教室(2学年ずつの複式学級)、職員室、洗面所、体育館、トイレ、物置、校長宅が並んでいた。

 戦前の北方領土を撮影した国書刊行会「写真集 懐かしの千島」などによると、この校舎は、37年12月の火災で全焼した紗那尋常高等小学校の向かい側に11カ月後に新築。41年に国民学校に改組された。

 戦後は日本人の児童だけでなく、択捉島に侵攻した旧ソ連の子どもたちの学び舎(や)としても使われ、日本人の引き揚げ後はしばらく「クリリスク小中学校」の校舎として使われた。その後は細長い建物を三つに仕切って消防署、図書館、屋内体育館として転用された。その後、これらの施設は新築され、移転した。自動車教習所として、校舎と運動場を再活用する案があったものの、校舎は朽ちるがままの状態が続いていた。

 終戦当時、小学6年だった札幌市豊平区の岩崎忠明さん(88)は「90年の北方領土墓参で坂の上から見下ろしたとき、国民学校の校舎が残っているのを見つけて、思わず『あった』と叫んだ」と記憶をたどる。当時、紗那の市街地に残っていたのは校舎のほかに紗那郵便局(30年に建設、2015年に解体)と択捉島水産会事務所(建設は郵便局と同時期、12年に解体)だけだった。「いずれも壊され、最後に残っていたのが、国民学校の校舎だった。非常に残念だ」と振り返る。

 終戦前後、尋常高等小学校、国民学校、高等科も含めて7年間、この校舎で学んだ岩崎さんは「午前中は日本人が使い、午後はソ連の子どもたちが学んだ。ケンカもした。大陸からの移住者がどんどんと増えて母屋を取られたような状態になった」と言う。「前の校舎も火事で焼けて、今回も……。運命なのでしょうか」と話した。

 その後、消防署として使われた部分の天井裏からは2013年、国民学校時代に子どもの描いた絵画や習字などの作品、開戦前後の号外、製材所の刻印の入った校舎の建材などが発見された。「択捉のタイムカプセル」と呼ばれ、これらは根室市歴史と自然の資料館に保管されている。

 この校舎を巡ってはビザなし交流で重要性を再認識した日本労働組合総連合会(連合)などが、国後島の「友好の家」のような機能を備えた日露交流の施設にできないかと検討。保存に向けて北海道博物館が内部の調査を始めており、そのさなかの火災だった。

 紗那国民学校の最後の校長を務めた青田武貴校長(故人)は、樺太経由で引き揚げる際、児童・生徒の学籍簿を「お経」に細かい文字で記入し、命がけで持ち帰った。これを根室市北方領土資料館に寄贈した三男、稔さん(78)=札幌市中央区=は焼失について、「がっかりした。択捉が好きで単身、島に残って校長を務めたおやじの思い出が消えてしまったようなはがゆい思いでいっぱい。当時、この学び舎に通ったソ連人にとっても同じ気持ちだろう」と悔しがった。

北方領土に残る日本建築

 戦前、北方四島に3250件を数えたという日本建築の大半は1960年代に壊され、現存する建物がほとんどないとされる。わずかに択捉島比良糸(びらいと)のふ化場の2棟、紗那の旧測候所跡、歯舞群島・勇留(ゆり)島の物置小屋、国後島の電柱が残っている可能性がある。だが、この十数年は訪れる元島民もなく、現状が不明だ。コンクリート製の建築物は納沙布岬から3・7キロの貝殻島灯台(2014年11月以降消灯)、色丹島色丹島灯台(ロシア名・シュペンベルグ灯台として現在も点灯)など13灯台が数えられる。択捉島にはコンクリート製のふ化場もいくつかある。