北方領土の話題と最新事情

北方領土の今を伝えるニュースや島の最新事情などを紹介しています。

パンくれた優しさ 忘れられない 歯舞群島水晶島出身 橋本三治さん(94)=根室市 <四島よ私たちの願い 日ロ交渉停止>新年特集 

(北海道新聞2023/1/3)

 空腹の私に、旧ソ連人の同僚が振る舞ってくれた黒パンと肉の入ったスープの温かさが忘れられません。1947年、旧ソ連に占領された北方領土歯舞群島の志発(しぼつ)島で、旧ソ連側が運営するカニの缶詰工場で働いていた時のことです。

 私は、志発島のすぐ西側にある水晶島のアキアジ場という地区で生まれました。父はコンブ漁師で、小学生の時からコンブを干す手伝いをしていました。15歳になるころには、私も船に乗って沖に出るようになりました。コンブは水深2、3メートルの浅いところにおがって(成長して)いて、先にL字形の金具がついたかぎざおを使って採ります。朝から夕方まで操業すると、遠くから見ても大漁だと分かるほど船いっぱいのコンブが採れました。水晶島は戦争の被害もなく、裕福な暮らしではありませんでしたが、海には魚がいて、備蓄した食料もあったので食べ物には困りませんでした。

 旧ソ連軍が水晶島に侵攻してきたのは、終戦後の45年9月でした。その日、私は島の南東にある三角崎でコンブ漁をしていました。周りには30隻くらい僚船がいたと思います。午後1時ごろでしょうか。2千トンくらいある大きな白い船が近づいてきました。僚船が1隻、呼び寄せられたと思ったら、10人ほどの外国人の兵隊が大型船から乗り移り、陸に向かって動き始めたんです。兵隊は銃を構えて、完全武装していました。もうコンブ漁どころじゃない。ろを必死にこいで、家の近くの浜まで戻りました。

 旧ソ連兵は三角崎にテントを立てて、駐留していました。こうなると、干したコンブを根室に運ぶための運搬船も来ることができないですから、コンブ漁を続けることができなくなってしまいました。

 水晶島の西側は納沙布岬が見えるくらい根室半島に近く、闇夜やしけに紛れて脱出した家が多かったようです。でも私たちのいた島の東側は、旧ソ連兵が駐留していたこともあり、残った家が多かった。食べ物はありましたし、根室は戦争中の空襲で焼け野原でしたからね。「旧ソ連に占領されても、島に残って暮らせるんじゃないか」という淡い期待がありました。

 志発島の缶詰工場で働き始めたのは46年1月のことでした。前年の12月ごろ、旧ソ連側から島側に「志発島西端の相泊でカニの缶詰工場を始めるから、働く人はいませんか」と問い合わせがあり、手を挙げました。働かなきゃ、食っていけないですからね。

 工場には日本人が100人くらいいて、旧ソ連の民間人もいました。流氷がまだ残っているうちから、刺し網漁船に乗って国後島の古釜布(ふるかまっぷ)の辺りにタラバガニを取りに行きました。漁船は8、9人乗りで、日本人と旧ソ連人が半々くらい。旧ソ連人は船の仕事に慣れておらず、自然と日本人が指導する形になりました。彼らは偉ぶったりせず、素直に話を聞くんです。一緒に「こうやろう」って話して、だんだんと仲間になっていきました。つきあいやすく、気持ちのいい人たちだと思いましたね。

 最初の1年間、工場では旧日本軍が残した米が配給されました。ところが、2年目には尽きてしまい、配られるのはわずかなパンだけになりました。食べ盛りの私からしたら、おなかがすいて夜も眠れない。どうしても耐えられない時は、仕事が終わった後に仲の良い旧ソ連人に「まき割りを手伝うから、ご飯を食べに行っていいか」と頼んでいました。そうすると嫌な顔一つせず食卓に招いてくれる。「食べなさい」って、パンとスープを振る舞ってくれた。彼らも日本人と同じ仕事をして、決して裕福ではないのにね。そうやって、日本人と旧ソ連人が協力して生活していたんです。旧ソ連の上の人たちのことは知りませんが、労働者たちは心の優しい人たちだと感じました。

 島を離れることになったのは47年の秋でした。島を出る2カ月ほど前、新聞を読んでいた旧ソ連人が「橋本さん、日本に帰れるよ」と話しかけてきました。私たちは何のことかわかりませんでしたが、旧ソ連人には日本人の強制送還の情報が伝わっていたんでしょう。それから1カ月くらい後に、旧ソ連側から「日本に帰るか、ソ連人として島に残るかを選べ」と言われました。私は引き揚げ船に乗り、樺太経由で函館に強制送還されました。

 それからは、先に島を出た家族のいる根室で、漁師として働き始めました。最初はホタテ漁、55年ごろからは北洋サケ・マス流し網漁船に乗りました。60年1月には択捉島沖でマダラ漁をしていて、旧ソ連警備艇に拿捕(だ ほ)されました。旧ソ連が主張する領海内に入っていたので、国後島での裁判では密漁をしていたと認めるしかありませんでした。サハリン(樺太)の木工所で机のペンキ塗りの作業をさせられ、10月に解放されました。その後は危険な漁はしませんでしたが、漁師は63歳まで続けました。

 仕事が忙しかったので、北方四島へのビザなし渡航には参加できませんでした。仕事を引退してからは体力が落ち、歩くのもゆるくなくなった。ビザなし渡航で島に行った人から「草がおがっていて、ひどかった」と聞くと「参加は難しいな」と思っていました。

 それでも、ロシアのウクライナ侵攻の影響でビザなし渡航ができなくなり、島に行けなくなってしまうと、やっぱり行きたくなります。水晶島志発島。コンブの干場や家のことを思い出します。見に行きたい。また島と行き来できるようになってほしいです。

 ウクライナでは、ロシア兵が残虐な行為をしているとも聞きます。ただ、ロシア人が悪い人ばかりだと思ってほしくはありません。少なくとも、私が一緒に働いた旧ソ連人は悪人ではありませんでした。ロシアという国と、ロシアで暮らす普通の人たちを一緒に考えてはいけない。まずはとにかく、ウクライナ侵攻が早く終わってほしいです。(聞き手・武藤里美)

ウクライナ侵攻 自分の記憶重なる 国後島泊村出身 田畑クニさん(87)=根室管内標津町<四島よ私たちの願い 日ロ交渉停止>新年特集 

(北海道新聞2023/1/3)

 私は国後島南部にある泊村のセイカラホールという地区の出身です。父は缶詰工場を営んでおり、生活は裕福でした。家にはオルガンがあり、米に菓子、缶詰など食べ物にも困りませんでした。運動会でかごに入ったバナナを食べたことを今も思い出します。

 しかし、そんな暮らしは戦争で一変しました。終戦後の1945年9月、鉄砲を背負った旧ソ連兵が土足で家に上がり込んできました。このままでは危ないということで11月の夜、近所に「残っている人はいませんか」と声をかけて回り、地区で最後に島を離れました。

 家族で焼き玉エンジンの小型船に乗り、根室を目指しました。船首に乗った父が、船尾にいた7歳の弟に「かじを左に取れ」などと指示していた。家族と一緒だったので怖くはありませんでしたが、その後の生活は大変でした。

 根室ではしばらく衣料品店を営む親戚宅で世話になりましたが、火事になり、その後は(根室管内の)標津町羅臼町などを転々としました。漁業権がなかった父は、職探しに苦労しました。生活は厳しく、川ぶちに捨てられたジャガイモのでんぷんかすの山から、食べられる部分をもらったこともありました。たくさんわいた細くて長いうじ虫をよけながら。これで命拾いしました。

 何も悪いことをしていないのに、旧ソ連軍の侵攻で全てを奪われました。でも、つらい思いをしたのは元島民全員です。そう考えて、漁業の手伝いで羅臼に出稼ぎに行った際も、周囲に支えられながら乗り越えました。

 中でも調理場の仕事はきつかった。冷たい水で手が荒れて、手の甲のひびから血が出ました。3歳上の姉が「代わってほしい」と訴えたほど過酷でした。一方で、漁師さんたちは温かい人たちだった。即興で私の名前を入れた歌を作って歌ってくれました。アイドルのようにかわいがってくれました。

 その後も、優しい人に恵まれて暮らしてきました。昨年は孫の夫が「船の上まで連れて行くからね」と言って、北方領土墓参に申し込んでくれました。ウクライナ侵攻の影響で、残念ながら中止になってしまいましたが、その気持ちが本当にうれしかった。顔ほどの大きさのクラゲやカニが住む夏の海と、ハマナスやヤマボタンが咲く故郷の景色。いつか孫夫婦やひ孫に見せたいです。

 北方四島とのビザなし交流で、標津町を訪れたロシア人島民を受け入れたこともあります。若くてきれいな女性で、娘の赤い振り袖を着せてあげたらとても喜んでくれました。何年たっても懐かしい思い出です。

 ロシア人への憎しみはありません。でも、戦争は憎い。ウクライナの惨状に、島を追われた自分を重ねてしまいます。特に4歳と2歳のひ孫と同じ年ごろの子供が貧困に苦しむ姿は見ていられません。一日も早く戦争が終わってほしいです。(聞き手・森朱里)

全国に領土問題伝える努力を 択捉島蘂取村出身 山本忠平さん(88)=神戸市<四島よ私たちの願い 日ロ交渉停止>新年特集 

(北海道新聞2022/1/3)

 私が北方領土の記憶を伝える千島歯舞諸島居住者連盟の「語り部」活動を始めたのは2009年からです。長く語り部をやっていた兄から「自分が年を取ったので」と推薦されたのがきっかけで、主に西日本各地で話をしてきました。

 択捉島蘂取(しべとろ)村で生まれ、1945年8月の終戦時は10歳でした。旧ソ連軍が最初に蘂取に来たのは、択捉島に上陸してから約1カ月後の9月末ごろでした。47年8月に樺太経由で本土に引き揚げるまで、旧ソ連の占領下で暮らしました。

 私の周りで命に関わる乱暴な事件は起きませんでしたが、島の日本人は財産を奪われ、監視の目が光る中でほとんど自由な行動や言論は許されない生活でした。本土に強制送還された際には写真を持ち出すことも許されず、全ての記憶を消し去られた思いでした。

 再び蘂取に行くことができたのは、北方領土墓参に初めて参加した91年です。それ以来、10回ぐらいビザなし渡航で訪れました。プーチン大統領ウクライナで非人道的な戦争を始めたことは許せませんが、交流してきたロシア人島民は日本人と変わらず、親切で優しかった。日本との関係が途絶えてしまったらロシア人島民も困ると思います。

 侵攻が長期化し、ロシアとの関係は大変難しくなっていますが、困難を乗り越えるには、相互理解を深めていくしかありません。私も語り部として体験を伝え続けていくつもりです。

 関西や西日本で語り部をしていると、北方領土は日本全体の問題ではなく、北海道の端っこの問題のように見られていると強く感じます。ウクライナ侵攻のニュースを見て、北方領土でも同じように日本人が故郷を追われた歴史を再認識し、関心を持つ人が増えることを期待しています。(聞き手・渡辺玲男)

返還運動のともしび 次世代に 国後島元島民2世 大森桂子さん(65)=札幌市東区<四島よ私たちの願い 日ロ交渉停止>新年特集 

(北海道新聞2023/1/3)

 私の母(92)は15歳まで国後島の東沸(とうふつ)で暮らしていました。1945年10月、母は親族と一緒に旧ソ連軍に占領された島から船で脱出し、根室に上陸しました。終戦1カ月前に空襲を受けた根室の市街地は焼け野原のようで、粗末な家で暮らすことになった母たちは大変苦労したそうです。

 母が戦後初めて東沸を訪れたのは2014年の北方領土墓参で、私も同行しました。島に上陸した途端、母の記憶が鮮明によみがえり、墓地までずんずんと力強く歩いていく姿に驚かされました。墓地近くの沼を見て「冬はここでスケートをしたの」と喜んでいました。私が母にしてあげられた一番の親孝行でした。

 ロシアのウクライナ侵攻で、墓参を含むビザなし渡航は停止され、いつ再開できるのかは分かりません。高齢の母を故郷へ連れて行くことは、もうできないかもしれません。それでも、私は母の生まれ育った場所にまた行きたい。日本政府にはロシア側との交渉の窓口は何としても維持し、人道的観点から行われてきた墓参の早期再開に向けた努力を続けてほしいです。

 元島民の後継者として、11年から北方領土返還要求運動に関わっています。運動に加わる2世(子)や3世(孫)が少ないことを心配しています。元島民たちが戦後一貫して訴えてきた思いを次世代に継承できなければ、返還運動は先細りしてしまいます。

 このままロシアと交渉さえできない状況が長期化し、後継者たちの返還運動への参加意欲がさらに低下してしまうのではないかと懸念しています。親の姿を見てきた私たち2世は「運動のともしびを消すまい」と活動を続けてきましたが、3世以降の若い世代に元島民の思いを伝えていくことの難しさに頭を悩ませています。(聞き手・村上辰徳)