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日本人は豊原(ユジノサハリンスク)をどう創ったか サハリンに残る150の日本建築 

 歴史家によるとサハリンには約150棟の日本建築物が残っている。秋の終わりを迎えたユジノサハリンスクでは樺太時代に日本人が建てた遺産が特別な印象を与えている。サハリンの歴史家が、かつて日本人がどのように社会経済施設や寺院、住宅を建設したかを語った。(サハリン・メディア2022/11/25)

1922年。豊原の街並み。郵便局から大通りを望む。遠くに見えるのは北海道拓殖銀行と警察署。札幌市立図書館

 

ミリタリー・タウン

 南サハリンを支配した樺太庁の40年の歴史の中で、多様な経済構造が生み出された。日本人は9つの製紙工場を建設し、21の鉱山で150万トンの石炭を生産。真岡、大泊、本斗の3つの主要港を造った。

 歴史家イーゴリ・サマリンは、南サハリンの日本人による植民地化の時期を3つに分類している。1905-1913年の樺太守備隊による軍管理の時期。2つ目は1905年8月28日から1907年3月31日までの樺太民政署。3つ目は1907年4月1日に設置された樺太庁長官による行政機構の形成。

 1905年まで、今のユジノサハリンスクの場所にはウラジミロフカというロシアの小さな村があった。日本人はそこに新しい都市を建設することを決定した。都市計画のモデルとされたのがシカゴ。街は「大通り」(レーニン通り)と「真岡通り」(サハリンスカヤ通り)の日本の大通りによって4つに分けられた。1906年春、ススヤ川のほとりウラジミロフカ南部からそれほど遠くない場所に新しい日本人居住地の建設が始まった。最初に建てられたのは樺太守備隊の兵舎と管理棟だった。1906年12月1日、大泊からノバヤウラジミロフカまでの鉄道が敷設された。1908年8月23日、ノバヤウラジミロフカは正式に「豊原」と解明された。

現在の樺太守備隊司令官官舎

 「樺太守備隊の本部は豊原に登場した最初の2階建ての建物。1908年10月、北海道の伊藤組によって建設された。設計は陸軍技師で建築家の田村鎮(やすし)だった。1階はレンガ造、2階は木造。北側と西側に2つの非対称の切妻と回廊があった。中央のファサードは真岡通り(現サハリンスカヤ通り)を見下ろしていた」とサマリンは説明した。

 建設から5年後、樺太守備隊が廃止となり南サハリンから日本軍隊が撤退し、建物は空き家になり、後に樺太庁博物館となる。1937年以降は憲兵隊によって使用され、1945年には軍事法廷が置かれた。

日本のアルコール、砂糖、紙

 「1913年、樺太守備隊が廃止され人口は激減した。4年後、王子製紙の工場が出来たことで状況は一変、再び街は活気づく。王子製紙は工場建設地に貝塚村(現ソロヴィヨフカ)を選んだ。しかし、豊原の住民はこの決定に同意せず、豊原に建設すべきと主張した。1913年に守備隊が廃止された後、豊原は衰退し、新たな産業が必要だった」とサマリンは言う。

 その結果、王子製紙は計画を変更し、1916年2月に豊原市街地の北側で建設を開始した。工場は1917年1月に操業を開始。この日こそ、南サハリンの産業発展の始まりであった。製紙工場の設計能力は年間48,000トンで、1944年の生産量は19,500トンだった。

 「南サハリンの運命において重要な出来事は砂糖工場の建設だった。日本最大の砂糖メーカー・明治製糖によって建設された。1936年5月に完成した建物は1930年代の産業建築の代表的なものとなった。生産能力は年間は40,000トンだった」と歴史家は述べている。

 樺太庁時代のもう1つの興味深い建築は蒸留所だ。1911年、ドイツの会社マイヤーによって建てられた。木炭やテレビン油、エチルアルコールを製造した。

 現在のユジノサハリンスクの建築物とは様式が全く異なる古い建物を見ると、島の産業の発展に重要な役割を果たしていたとは想像できない。

皇帝の到着

 1920年ニコライエフスク事件(尼港事件)の後、再び豊原に守備隊が移された。1925年、サハリン北部がソ連に返還された直後、かなりの住民が島の南部に移動した。「その時までに年間1,600万個のレンガを生産できる2つの工場が市街にあった。製材工場6、食料品企業13、アルコール製造工場3、味噌・醤油工場2、製粉工場2、精米、冷蔵庫、缶詰、食肉工場もできた。豊原には機関車修理工場もあった。ゴム靴工場では月に7,800足の靴、アザラシの油から石鹸を造る工場では月に7~8トンの石鹸を生産した。市内には、4,120kwの容量を持つ発電所2、1800の番号にサービスを提供する自動電話交換機、2つの映画館もあった。

 1925年8月、裕仁殿下の樺太訪問に合わせて、豊原市役所が新築された。木造2階建てのシンプルな建物。この時までに日本人は儀式的でエレガントな「木骨造」を放棄しており、市役所の唯一の装飾要素は正面玄関を飾るフェストゥーンの飾りであった。

1935年、北海道拓殖銀行豊原支店

 豊原の経済発展に伴い、銀行業も発達したし、遠藤組は北海道拓殖銀行豊原支店を建設した。完成は1930年9月24日。ユジノサハリンスクのメインストリートにある建物は1989年からサハリン州美術館として使用されている。

樺太庁

 「1934年2月、建築家の貝塚良雄が特別室を備えた樺太庁の庁舎の設計に着手。天守閣を備えた2階建ての鉄筋コンクリートの建物は、建築の観点から最も興味深いオブジェクトであり、現在サハリン郷土博物館として使用されている」とサマリン。

 


 南サハリンで日本人が建てた建築物の中で、樺太庁中央試験場を無視することはできない。1929年春、貝塚良雄によってプロジェクトがスタートし、遠藤組によって1933年に竣工した。「2階建ての中央部には塔と時計が組み込まれている。非対称で平らな屋根が建物を船のように見せている。おそらく、船の設計者になるという建築家貝塚義男の子供の頃の夢を反映しているのではないか」と、歴史家は示唆している。現在はロシア科学アカデミー極東支部の海洋地質学・地球物理学研究所が入っている。

 1942年、豊原の人口は37,160人。戸数は7,237戸でうち124戸が行政と公共機関の建物だった。郵便局7、交番12、学校11、行政庁舎21、鉄道関係12、寺院9、工場棟11、軍事施設7、商店27。

1925年、豊原中学校。札幌市立図書館

 帝国主義日本の敗北後、ヤルタ会議の決定に従ってサハリン島南部はソビエト連邦に割譲された。日本の歴史的、文化的遺産に関するサハリン政権の最初の行動は、率直に言って否定的なものだった。多くのモニュメントが破壊され、都市の再開発中に取り壊された。戦後の最初の数年間、サハリンの科学者たちは最も興味深い建築物を保存しようとしたが、満足のいく結果にはならなかった、

 1985年、国の政治制度はより民主的になり、ソビエト社会にとって不快なトピックに関する研究を含め、多くの禁止事項を取り除くことが可能になった。その1つが樺太庁時代の日本による南樺太の植民地化の歴史だった。政治情勢の変化に伴い、文化的価値に対する姿勢も変化したため、日本遺産はサハリン地域の歴史的遺産の一部となっている。

旧豊原病院の現在

1950年、豊原病院。札幌市立図書館