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「四極」陸揚庫会議 石垣市・海底電線陸揚室跡(通称・デンシンヤー)

名 称 海底電線陸揚室跡(通称・デンシンヤー)

所在地 沖縄県石垣市字崎枝

所有者 石垣市教育委員会

面 積 28.9㎡(敷地面積736㎡、陸揚室、石垣、井戸がある)

建築年 1897年(明治30) 

    ※臨時台湾電信灯標建設部報告に明治29年7月までに竣工しの記述あり

設置者 旧陸軍省(後に旧逓信省に移管)

構 造 煉瓦積み、モルタル仕上げ(屋根は鉄筋コンクリート造)

指 定 県指定史跡2021年8月

海底線 

1897年(明治30)5月6日、敷設船「沖縄丸」により石垣島--台湾(基隆=明治43年に淡水に変更)間に1心GP海底ケーブル302.56km敷設

※GP(マレー語でガタパーチャ=ゴムの木)マレーシア原産のアカテツ科の樹木の樹液から得られるゴム状の樹脂で絶縁体に使用した

※本土(鹿児島)--奄美大島--沖縄本島--石垣島--台湾(総延長850.1km)の一部

太平洋戦争時の無数の弾痕

陸揚室の壁は赤煉瓦積みのモルタル仕上げ。屋根は鉄筋コンクリート造りで、緩やかに傾斜した切妻。雨水を溜める貯水槽が外壁に接して設けられている。

屋内は試験室と休憩室の2つに仕切られ、試験室にはコンクリート製の通信機器の添え付け台と海底ケーブル引き込み跡がある。

屋根と壁は所々モルタルが上塗りされ、補修が繰り返されてきたことがうかがえる。建物全体に太平洋戦争時の無数の弾痕が残る。

石積みはサンゴ製の切石が利用され、幅0.8m、高さ2.6m~3.0mで控え壁を有し、敷地南東角にL字状に位置している。風雨による経年劣化により崩落が進んでいる。井戸は敷地の西側にあり、内径が幅1mで掘り抜き井戸である。

建物は戦時中の銃撃に加えて、海岸に近接していることから塩害によりコンクリートモルタルの腐食、剥落が進んでいる。天井のコンクリートは鉄筋がむき出しになっている部分もある。

陸軍省が取り組んだ国家プロジェクト

本土(鹿児島)--奄美大島--沖縄本島--石垣島--台湾を結ぶ海底電信線は、日清戦争(1894-1895)で日本領となった台湾の統治と政策を進めるために旧陸軍省により敷設され、石垣島の中継施設として「海底電線陸揚室跡」が建設された。欧米列強のアジア進出に対抗し、明治政府が威信をかけて取り組んだ国家プロジェクト。沖縄における電信通信の歴史の始まりであり、飛躍的な情報化をもたらした歴史的建造物。

 建設に当たったのは、明治29年(1896)に創設された陸軍省臨時台湾電信建設部。部長は児玉源太郎少将。長崎市の「海底線史料館」(NTTワールドエンジニアリングマリン株式会社所有)は貯線槽から布設船にケーブルを移動するために必要な電源を供給する電源舎として、同建設部が設置した施設である。

 明治29年(1896)に鹿児島--沖縄本島明治30年(1897)に石垣島--台湾(基隆)、沖縄(那覇)--石垣間に海底線を敷設し、石垣島八重山通信所を開設。同年7月から軍用に加えて一般通信の取り扱いを開始した。

バルチック艦隊北上するを見ゆ

 明治38年(1905)、日露戦争中の5月25日に宮古島の西北海上を航行中のバルチック艦隊を漁師が発見と、宮古島の駐在所に報告。島民5人が艦隊の北上を大本営に知らせるため、サバニを漕いで156km離れた石垣島に渡り、八重山郵便電信局から「バルチック艦隊北上するを見ゆ」と打電したエピソードは、のちに「久松五勇士」として称賛された。

※参照文献

「近代遺跡調査報告書--交通・通信・運輸業--(平成31年文化庁文化財第二課)」