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国後島の新聞「国境にて」電子版 「ビザなし渡航(交流)」の歴史を振り返る

 国後島択捉島の市長や議長が、ビザなし渡航の実施に関する事務を所管するサハリン州政府の経済発展大臣から「ビザなし交流協定の終了について」と題する通知を受領したことを受けて、国後島の新聞「国境にて」の電子版にビザなし渡航(交流)の歴史をロシア側の立場から振り返る記事が掲載された。(Kurilnews.ru 2022/11/18)

 それはすべて1991年に始まった。その年の4月18日にソ連ゴルバチョフ大統領と日本の海部俊樹首相によって署名された日ソ協定に基づいて、相互理解を深めるために、クリル諸島南部の島々(国後島色丹島択捉島)に定住するソ連市民のグループによる日本のさまざまな地域への訪問、および日本市民によるロシアの島々への訪問を実施することになった。これらの訪問と観光旅行の違いは、ロシア人と日本人は、身分証明書とそれに添付された挿入紙に基づいて、パスポートとビザなしでお互いに訪問しなければならないことだ。

 ロシアの法律およびロシア外務省の指示に従い、サハリン州政府およびクリル諸島南部に位置する地方自治体は、サハリン州の連邦連邦保安局、国境局、連邦移民局、税関とともに、訪問プログラムの準備、ロシア訪問団の編成、日本代表団との協議に参加した。

 ロシアと日本の市民のためにビザなし渡航を実施するために、サハリン州政府の下に特別委員会が設置された。国後島択捉島色丹島の 3 つの島それぞれで、市長の下にビザなし渡航小委員会が設置された。島ごとに、訪問団の割り当てが決定され、島の退役軍人や日本側訪問団の受け入れに協力している市民が優先権を享受した。

 日本では、東京を拠点とする北方領土問題対策協会と北海道を中心とする北方四島交流北海道推進委員会の2つの団体がビザなし交流を行った。

 この政治プロジェクトは、日本政府によって全額出資されたことも付け加えておく価値がある。日本側は、輸送のために80人乗りの特別客船を建造した。クリル諸島南部への人道支援として、自走式はしけ「ナデジダ(希望丸)」と「ドルジバ(友好丸)」の2隻を建造し、国後島ユジノクリリスク(古釜布)に到着した日本人訪問団のために70 人が宿泊できる「友好の家」を建設した。日本からの人道支援物資を保管するために、3 つの島に 3 棟の倉庫が建設された。

 ビザなしの渡航は 6 つ分野で実施された。①一般の代表団の訪問 (40 人から 70 人のグループ)➁専門家の小グループ(火山学者、地震学者、環境部門の研究者、植物学者、医療従事者、博物館の研究者)➂日本語教師 (4 人の日本人専門家が 3 つの島のそれぞれで 1 か月半日本語を教えた)➃日本人の元島民による先祖の墓参り➄日本人元島民と親族による島々への自由訪問➅子供を含むロシア国民の北海道内の医療機関根室中標津、札幌)への健康診断および治療のための訪問。

 1992 年 4 月から 2019 年 10 月までの間に、25,000 人を超える日本人が国後、択捉、小クリル列島(色丹島歯舞群島)の島々を訪れた。また、サハリン州クリル諸島の 3 つ島に住む 11,000 人を超えるロシア人が、隣国の生活と文化を知ることができた。この期間、12 歳から 17 歳までの 1,500 人以上の青少年が日本を訪れた。

 1992 年から 2019 年まで国後、択捉、色丹の住民は北海道、青森、秋田、岩手、宮城、茨城、群馬、東京、千葉、神奈川、長野、山梨、新潟、富山、福井、石川、鈴岡、愛知、滋賀、京都、奈良、和歌山、兵庫、岡山、鳥取、広島、愛媛、徳島、香川、福岡、佐賀、長崎、熊本、宮崎、大分、沖縄を訪問した。

 間違いなく、クリル諸島の住民にとって、遠く離れた神秘的な国を訪れる機会は大成功だった。1992 年 4 月に隣国日本を最初に訪れたロシア代表団の中には、先の大祖国戦争のさまざまな前線で戦った退役軍人、労働退役軍人、クリルの3 つの島々の功労者が含まれていた。当然のことながら、退役軍人は日出ずる国(日本)への旅から鮮やかな印象を持ち帰った。

 この期間はすでに歴史の一部になっている。そして、ビザなし渡航の全プロセスの組織化において、すべてがスムースに行われたわけではなかった。クリル諸島へのビザなし渡航プログラムの開始当初から、日本の主な参加者は島の元居住者とその家族だった。

 国後島択捉島色丹島を含む小クリル列島の島々には、全部で 54(※正しくは52) の日本人墓地がある。日本の訪問団は墓地を順番に訪問したが、その後、日本側は、日本政府のさまざまな省庁の職員、さまざまなレベルの政治家、および多数のジャーナリストを代表団に含め始めた。当然のことながら、「民間外交」の枠組みであるビザなし交流のこのような長い期間(27年)の間に、日本の主張を有利にするためのプロパガンダが常に存在した。これは、ロシア人訪問団の日本滞在中に、あるいは日本人訪問団が島に滞在した際に、それぞれがゲストを自宅に迎えた時に観察された。

 著名な政治学者、歴史学者であるアナトリー・コーシュキン氏は「ビザなし交流を始めたゴルバチョフエリツィンは、日本のお年寄りが先祖のお墓参りが出来るようにという人道問題について語ったが、実際にそのことは日本の当局を甘やかすことにつながった。日本は自国の高齢者への思いやりを示すことなく、彼らのためにソビエト、次にロシアのビザ発給を認めず、帝政ロシアに属していた島々が第二次大戦の結果、国際協定よって、ロシア領に戻ったことを認めない立場を示した。

 その後、日本側は、ロシアの公式の入国ビザ発給を受けない形で、共同経済活動に積極的に取り組み始めた。彼らは、国後島ユジノクリリスクに廃棄物焼却工場を建設することさえ計画し、クリル諸島の住宅・公共サービス事業の専門家を北海道に招き、彼らに家庭ごみを処理するシステムを教え、紹介した。その後、日本からの「観光客」の最初のグループがクリル諸島に到着した。しかし、その人たちを見ていると、その中には以前にクリル諸島に来ていたビザなし交流の参加者がたくさんいることがわかった。私は、国後島色丹島についてはロシア側の提案に沿って詳細な調査が行われたことを覚えているが、択捉島に到着した時には、上陸してちょっと見ただけで船に戻った。観光が前線に過ぎないことは明白だった。日本のメディアが後に書いたように、クリル諸島への日本人の観光は、当然のことながら、日本に有利な「領土問題」の解決策を準備するためのものだ。

 アナトリー・コーシュキン氏は、産経新聞を引用して次のように続けている。「小クリル列島(色丹島歯舞群島)は日本の領土になるので、日本人がそこに住み経済活動や文化活動を行うことができる。国後島択捉島はロシアの主権下におかれ、ここでは、経済活動に必要な特別な地位を日本に認めるシステムを考案することができる。日本人は国後島択捉島に旅行し、そして将来、これらの島々が日本化されることでロシアとの間で協定が締結され、日本領になる可能性は排除できない」--。