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知床観光船事故から半年…遺体返還の“舞台裏” なぜロシアからの返還に4か月もかかったのか?

(TBS 2022/10/29)

 知床沖で観光船「KAZU 1(カズワン)」が沈没した事故の発生から、10月23日で半年が経った。乗客乗員26人のうち、死亡が確認されたのは20人、残る乗客6人はいまだ行方がわからない(10月28日現在)。

 死亡者の中には、日本の統治権が実質及ばない北方領土やロシアのサハリンで遺体が見つかった人たちもいた。

 北海道北見市在住だった乗客女性(21)と、東京都調布市在住だった甲板員の曽山聖さん(27)の2人は、2022年5月に国後島西岸で、北見市に単身赴任中だった乗客男性(59)は6月にサハリン南部で発見された。

 遺体の返還について、外交ルートなどを通じてロシアとの話し合いが始まったが、結局、遺体が日本に戻ったのは9月10日。5月の国後島での発見から数えて、約4か月もかかったことになる。

 外務省によると、海外で日本人が死亡し遺体を日本に送る場合、通常であれば書類などの手続きを済ませて1週間から数週間、長くても1か月程度だという。今回は遺体のDNA鑑定が必要で、その時間を考慮したとしても、4か月もかかるのは極めて異例と言える。

■遺体返還になぜ4か月も?遺族からも挙がった疑問の声

 遺体が日本に返還されるまでの間、犠牲者の家族たちは、週に2回開かれる政府の説明会で、「遺体返還の調整がなぜこんなに長引いているのか」と理由を尋ねていたという。

 これに対し、外務省や国土交通省の担当者が、ロシアとの調整が難航していることなど、その時々の状況を可能な限り説明したというが、対ロシア交渉の全てを赤裸々に話すこともできず、家族らの中には苛立ちを隠せなかった人もいたという。

 なぜ遺体返還に4か月も要したのか?ウクライナ侵攻の影響も含めて、ロシアとの調整で一体何が問題となっていたのか取材した。

ウクライナ侵攻が交渉に影響?政府関係者は否定的

 遺体の返還交渉がまとまるまでの間、「ウクライナ問題が交渉に影を落としているのではないか」という疑念が、メディアにも一般にも持たれていたように思う。すなわち、ロシアにとって日本は、欧米諸国とともに対ロ経済制裁を行っているいわば「敵国」であり、「沈没事故の犠牲者の遺体返還すら、ロシア側は交渉材料として使おうとしているのではないか」という疑念である。

 これについて、政府関係者は否定的だ。根拠として、ロシア側は日本側がリクエストしたことには、時間がかかっても応えていることがあげられる。

 例えば、事故発生当初は海の捜索、その後の北方領土やロシア沿岸部での遺体・遺留品の捜索などだ。実際、ロシア側は乗客の所持品だったリュックサックも発見し、日本側に知らせてきた。

 「時間はかかっているが、ロシア側も水難事故の犠牲者に関しては誠実に応えようとしていたのではないか」というのが政府関係者の受け止めだ。

 ウクライナ侵攻が日ロ関係に緊張をもたらしたのは確かだが、ロシアとの間で諸問題が滞る中、観光船事故の不明者捜索については「例外的にロシア側と緊密に連絡がとれていた」という。

 交渉過程を知る政府関係者は「少なくとも、知床の話の中でウクライナについて言及されたことは一度もない」と断言している。

 ウクライナ問題を有利に運ぶためにロシア政府が遺体返還をカードとして利用しようとの明確な意図があったとは考えにくい。しかし、取材を進めると、ウクライナ問題の影響がなかったとは言えないことがわかってきた。

■当初提案した“中間線での引き取り案”とは

 返還の調整に時間がかかったのは、やはりロシア特有と言ってよい幾つかの事情があった。

 5月、2人の遺体が見つかったのは、ロシアが実効支配する北方領土国後島だった。海上保安庁は当初、北海道と北方領土との中間線付近の洋上で遺体の引き渡しをしてはどうかと外務省に提案し、ロシア側に伝えてもらったという。

 中間線をめぐっては、2007年12月にロシア国境警備局の警備艇が日本の漁船4隻を拿捕した件で、翌年2月、北海道庁所属の漁業取締船が中間線付近の根室沖で乗組員4人の引き渡しを受けたことがあったが、中間線での遺体の引き渡しは前例がなかった。

 当初、ロシア側からは肯定的な反応が返ってきており、この案はまとまるかに見えた。しかし、中間線での引き渡しの場合、ロシア側は国境警備局所属の船が向かうのだが、これについてロシア国内での調整ができず、実現しなかった。

■前例のある“国後島での引き取り案” しかしウクライナ侵攻の影響が

 次に、国後島海上保安庁の船で遺体を引き取りに行く提案がされた。

 国後島での遺体の引き渡しについては、2006年8月16日に漁船「第31吉進丸」がロシア国境警備局の警備艇に銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡した事件で、発生から3日後の8月19日、遺体を国後島に引き取りに行った例がある。

 この時、海上保安庁の巡視船「さろま」(PS型180トン)が国後島に赴いたが、海保職員の他に外務大臣政務官も同乗しており、国後島に上陸し、ロシア側に拘束されていた乗組員3人と面会した。

 当時、ロシア側は旧島民に対し、北方領土にある墓参りのための「ビザなし渡航」を認めており、国後島に遺体を引き取りに行った日本政府関係者たちは、この手続きが簡略化された「ビザなし渡航」で国後入りしたのだった。

 こうした前例があったため、今回の国後島での遺体返還について、日本側はかつてと同様「ビザなし」での入島を申し入れたという。しかし折悪く、観光船事故の約1か月前の3月21日、ロシア政府は、ウクライナ侵攻後に日本が欧米諸国と共に行った対ロ制裁を理由に日本との平和条約締結交渉を中断し、あわせて北方領土の元島民らによるいわゆる「ビザなし交流」を停止する意向を一方的に表明した。

 そのため、国後島での引き渡しについて、ロシア側の返答は「国後島に来るのならビザ取得など正式手続きをする必要がある」というものだった。

 日本政府としては、「国後島は自国の領土」という認識のため、ロシアのビザを取得して国後島に上陸することはできず、この案は折り合いがつかず頓挫してしまった。

 政府関係者は、このことが、遺体返還を長期化させる大きな要因となったとみている。

国後島に向かう船の問題も

 もしも仮に国後島での遺体返還が実現していたとしても、海上保安庁が派遣する船については、微妙な問題があった。

 日ロの調整がまとまり、最終的に9月にサハリンまで遺体を引き取りに行った海保の巡視船「つがる」(PLH型、ヘリコプター搭載、3100トン)は、海保が保有する中で、国際航行が可能な最大級の船だ。国際条約(船舶バラスト水規制管理条約)で、国際航行するためには「グレイウォーター」と呼ばれる生活排水を浄化するための特殊な設備(タンク)が備わっていることが求められている。

 しかし、日本政府は「国後島は日本の領土」という立場をとっていて、北海道から目と鼻の先にある国後島に航行する場合、「つがる」のような国際航行可能な大型船で行くことは考えられず、また国後島の港には「つがる」のような大型船が接岸できる設備はないため、小型の巡視船で向かっただろう。

 2006年に銃撃して死亡させた乗組員の遺体返還の時とは違い、今回は海難事故の犠牲者の遺体返還である。ロシアにとって、日本側が「国後島は国内だ」との前提で小型巡視船で来ることは、看過し難い状況だったのではないだろうか。

 結局、日本政府からは、上記の「中間線案」「国後島案」の他にも、「ロシア側が日本に届ける案」なども含め、様々な提案を外交ルートで投げたというが、いずれも合意には至らなかった。

■「この機を逃してはならない」台風迫る中の“見切り出航”

 こうした中、第4の案も検討されていた。6月28日、サハリンで乗客男性の遺体が発見されたとロシアから伝えられた。

 当初は、国後で発見された2人の遺体とは別に返還する方向で調整が始まったが、その後、国後で発見された2遺体をサハリンまで送り、海保の巡視船で3人の遺体をサハリンでまとめて引き取る案が浮上したのだ。サハリンは国後島と違い明確にロシア領であり、大型の巡視船で向かうことに何の問題もない。

 すぐに、海上保安庁の巡視船をサハリン南部のコルサコフ港に入れるための「口上書」(相手国に意向を伝える外交文書)をロシア側に提出する手続きが始まった。サハリンのロシア外務省関係者からも、「遺体を返還できるので来港して大丈夫」との言質が得られていた。

 9月上旬には、遺体返還を9月9日に行うという具体的なスケジュールがロシア側からもたらされた。国後島から遺体をフェリーで移送する手配や、サハリンでの遺体の保管、巡視船の入港手続きなど、日ロ関係者たちが9日をターゲットとして各所で動き始めた。

 さらに、海上保安庁には、船会社から「国後島で発見された2人の遺体がフェリーでサハリンに移送された」との情報も入っていた。日本政府関係者たちは、遺体はきっと返還されると確信を強めた。

 しかし、最後の懸案は、北ではなく南からやってきた。折しも、東シナ海から日本海を通って大型の台風11号が北上してきていた。台風に足止めを食って巡視船がサハリンに向かえなくなれば、9日を軸に進められた諸々の手続きがすべて無駄になり、スケジュールをゼロから組み直すことになる。

「この機を逃してはならない」

 この時点で、口上書に対するロシア政府からの正式な文書回答がまだ来ていなかった。口上書の回答が来なければコルサコフに入港することはできない。

 政府関係者たちは「航海中に回答はきっと来る」と信じ、9月8日午後1時すぎ、海上保安庁の大型巡視船「つがる」が北海道・小樽から出港した。「見切り発車」ならぬ、「見切り出航」だった。

■出航から約4時間…ロシア政府から届いた正式回答

 サハリン到着までの航海中にロシア政府からの正式回答が来なければ、「つがる」はコルサコフ港に入れず洋上で待機しなければならない。そのためにも、水や燃料が不足する心配がなく、長期停泊が可能な大型巡視船「つがる」が選ばれたのだった。

 ロシア政府から正式な回答がもたらされるまでの航海中、政府関係者たちは気が気でなかったという。

 果たして、出港から約4時間後(日本時間8日 午後5時ごろ)、航行中にロシア政府から正式回答がもたらされた。日付が変わる頃、約11時間かけてサハリン沖に到着した「つがる」は、朝までそこに停泊し、翌9日の現地時間午前9時30分頃、ロシア側のエスコート船に先導され、コルサコフ港に無事に入ることができた。

 「つがる」は3人の遺体を乗せ、正午すぎには現地を離れた。「つがる」は台風11号の影響を受けることなく順調な航海を経て、翌10日朝、小樽港に戻ってきたのだった。

 遺体が日本側に引き渡された9日、松野官房長官は記者会見で「遺体の発見から今日まで約4か月を要したが、なぜここまでかかったのか?」と問われ、「これまでのロシア側とのやり取りにおいて、日ロ関係の悪化が何かしらの障害になっているとは考えておらず、ロシア側とは適時適切にやりとりを行ってきた」と説明した。

 しかし、返還までのプロセスを追ってみると、ロシアは遺体返還をウクライナ問題で自国を有利に導くための交渉カードに使うことはしなかったようだが、北方領土ウクライナの2つの政治問題が返還調整の節目節目に影を落とし、長期化を招いたと言えるだろう。ロシアとの交渉は何であれ時間がかかることが多いと言われるが、ウクライナ侵攻による日ロ関係の悪化がなければ、遺体はもっと早期に返還された可能性が高かったのではないか。

 一方で、日ロ双方の政府や現場の関係者たちが手を尽くして調整にあたったことは確かだろう。返還を待っていた犠牲者家族たちの心情は察するに余りあるが、悪化した日ロ関係の中で、時間がかかっても遺体が家族たちの元に戻ったことは、両国間で人道的なモラルがまだ共有されている証として、一抹の安堵と希望を感じさせる。(TBSテレビ社会部 黒川朋子)