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北方領土の元島民の思い 戦争と交流の途絶

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻で北方領土をめぐる日ロの交渉や北方4島との交流が全て途絶えました。平均年齢が87歳を越えた北方領土の元島民は今、何を思うのでしょうか。石川一洋専門解説委員が取材しました。(NHKウエブサイト「解説委員室」2022/9/16より)

Q ウクライナへのロシアの軍事侵攻は北方領土問題にどのような影響を及ぼしていますか

A 日本は国際秩序の根本を覆す暴挙として、欧米とともにウクライナを支援し、ロシアに厳しい経済制裁を科しました。これに対して、ロシアは日本を非友好国として、平和条約交渉の停止と北方4島との間のビザなし交流の中断を通告、今月には、ビザなし交流の基礎となる政府間協定からの一方的離脱を表明しました。
 ビザなし交流は1991年4月当時のソビエト連邦ゴルバチョフ大統領が来日したときにソビエト側が提案した枠組みで、領土問題に関する双方の立場を害さないため、査証つまりビザを取らずに、元島民など日本人が島に北方領土のロシア人が日本本土を訪れる手段で、92年から30年間、交流が続いていました。それが断ち切られてしまったのです。

Q 元島民の方々は、今はどのように思っているのでしょうか?

A 怒りとショックを感じています。
語り部などで返還運動に貢献するとともにビザなし交流にも参加してきた元島民の方3名に話を聞きました。

 脇紀美夫さんは元島民の団体の理事長を長年勤めてきました。

 故郷は国後島、北方4島で最も高い山の爺々岳の麓のあたりです。

 島を追われたのは小学生の時、両親とともに、故郷がもっとも近く見えるところでと国後島が目の前に見える羅臼に移住して70年、しかし島は物理的には近くでありながら、自由に行けない遠い島のままでした。

 脇さんは島のロシア人との交流や支援を続けてきましたが、ロシア側は、日本の制裁に対する対抗措置としてロシア入国禁止リストには脇さんの名前も加えたのです。
「我々の場合は純粋に元島民の組織なのです。純粋にね、島を返還してほしい、元島民の組織なのだから。それを訴えていくということに別に政治的な意図もない。個人でないのでね、組織のトップとして入れられたのは非常に残念だな」
 「佇まいというか、自然というか、これは日本の島でしかるべきだと思った。いつかは戻れるのではと感じた。戻り方はいろんな形があるにしても、住む、住まないは別にして」
 「(日本の)立ち位置は難しいのだろうけどそれとこれ(北方領土問題)とは別だな。領土交渉の前にまず墓参、それを糸口にしてやってほしいなと思っている」

Q ビザなし交流が無くなったのは元島民にとってショックだったでしょうね

A ビザなしを根室で支えてきたのは色丹島出身の元島民の得能宏さんです。島がソビエト軍に占領された中での体験は映画「ジョバンニの島」のモデルにもなりました。

 島には得能家の墓があり、島に戻りたいという気持ちを強く持っています。

 同時にビザなし交流の中で、色丹島のロシア人と深い絆を築き、ロシア人の友人とは親子同然の関係を続けています。
 得能さんはウクライナに軍事侵攻したプーチン大統領に強い怒りを感じています。しかし今も、島のロシア人島民からは得能さんにメッセージが伝えられているといいます。
 「(島のロシア人の友人から)得能家の墓と斜古丹墓地の清掃をしますから安心してくださいと伝えられました。プーチンさんはそのように考えたのだけど、島のロシア人はまた再開されることと信じている。プーチンプーチンとして私たちはまた会えると思っているから。足が悪くなっても大丈夫だ、心臓は大事にしてくれと(伝えてきた)。いやいやありがたいな」
 新型コロナの時も島のロシア人とリモートで対話をするなど交流を続けてきました。ただプーチン政権が軍事侵攻の中で、情報統制や異なる意見への締め付けを強めていて、なかなかオープンに交流を続けるのは、相手の立場もあり難しさを感じています。ロシアと日本の対立の中で、得能さんは世代を超えて北方領土返還を訴えていくべきだと考えています
 「だから間違ってもこの問題だけは諦めてはだめだ。ずっと続くのだ。私は自分の命がある限り、語り部として訴えていきたい」

Q 命ある限り、訴えていきたい 覚悟を感じますね ウクライナの状況について、元島民はどのように感じているのでしょうか?

A 北方領土は、日本がポツダム宣言を受託し、終戦した後、ソビエト軍に占領されました。
 元島民・鈴木咲子さんは、択捉島北部の蘂取村出身で、それまで空襲もなく平和な島だったのがソビエト軍の占領で一変したといいます。

 占領下で3年暮らした後、強制的に送還されました。島に移住してきたソビエトの人たちと同居した体験を持ちます。
 その中にウクライナ出身者が多かったと記憶していています。今の戦争の姿と島を追われた自分たちの姿、そして島に来たソビエトの人たちの姿が重なるといいます。
「(島に移住してきたソビエトの人の)子供は靴を片方しか履いていなくて、ズタ袋のようなものをかついで、その中ものものを出して、乾しわらのようなものを敷いて寝床にしているとか」
 「(今のウクライナの避難民は)持てるだけの荷物を持ってお年寄りとか子供たちが、命からがら逃げ惑うというのが少し重なりますよね。子供さんたちの生活が一変してしまう。命も奪われますから、一刻も早く戦争をやめてほしいなと思います」
 「(生まれ故郷は)何も無くなっている。返してほしいなと思いました。綺麗なところなのですね。ああいう綺麗なところを汚いままにしておくのは罪じゃないでしょうか。こんな風にするならなんで奪い取ったのと、奪い取った方はどのようにするにしても自分たちの勝手と思うでしょうが、ほんとうに悔しかったです」

 鈴木咲子さんは領土問題が解決する中で島を日本人とロシア人がともに住む島にして、美しい故郷蘂取村(しべとろむら)を復活させたいとも願っています。

 そして娘の山下孝子さんに島の様子を詳しく話し、孝子さんが、咲子さんの話をもとに絵を描きました。

 美しかった故郷の蘂取村の案内図です。

Q 鮮明な絵ですね。元島民の記憶の中には今もこうした故郷の姿が生きているのですね。
 一軒一軒の家、どんな花が咲いていたのか、細かいところまで描かれています。

A本物みたいですねと私が話したら、全部 その絵の通りです。本物です。全部記憶していますと咲子さんに怒られてしまいました。

 元島民の三名と話していて、こうした苦しい状況にもかかわらず、絶対に諦めない、希望は捨てない、島は返してほしいと話していたのが心に残りました。この気持ちを次の世代に伝えていくことが重要です。

 元島民が今の現実の中で政府に最低限実現してほしいと思っているのは、墓参です。
両国政府は人道的な観点から少なくとも元島民の墓参は早急に実現してほしいと思います。(石川 一洋 専門解説委員)