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色丹島を終の棲家にしたオリンピアン 水産加工場のローダー運転手に

6月23日--ロシアのオリンピックデーにちなんでSNS「ShikotanNews」で興味深いエピソードが紹介されていた。1964年の東京オリンピック自転車競技に出場したソ連のアナトリー・ウラジミロビッチ・オリザレンコは、競技を引退した後、北方領土色丹島に移住し、「オストロブノイ」水産加工場で、ローダーの運転手として余生を送った。当時、すべての家庭にテレビが普及していたわけではなく、ましてやインターネットもなかった時代だったが、ソ連に有力な選手がいたこともあり、サイクリング競技への関心が高かった。ヨーロッパでのチームレースは人々の関心の的だった。強豪の1人としてオリザレンコという名前はよく知られていた。

アナトリー・ウラジミロビッチ・オリザレンコ(1936年9月25日-1984年1月30日)。レニングラード出身。ソ連自転車競技選手(専門はグループレース)。身長176㎝、体重72kg。国際クラスのスポーツのマスター。

アナトリー・オリザレンコは、1958年のエジプト・ツアーで優勝、1960年のポーランド・ツアーで3位、ワールドレースで9位に入ったことで、ヨーロッパのサイクリング界で知られる存在になっていった。そして、1963年の世界選手権のタイムトライアルで銅メダルを獲得した。1964年の東京オリンピックに出場。ロードレースと100kmチームタイムトライアルに出場し、後者で5位の成績を収めた。記録は2時間26分だった。その後、1966年に競技人生にピリオドを打ち、色丹島のクラボザボツコエ村(穴澗)に移り住み、働いて、そして埋葬された。1984年ことである。以上が、ソ連の有名なサイクリストの短いけれど、重要な情報のすべてである。

       レフ・セディフさん
国内最大級の水産加工工場の1つである「オストロヴノイ」を率いたレフ・セディフさんは、有名なアスリートにもかかわらず、地域のスポーツ大会に参加することに躊躇しなかったアナトリー・オリザレンコのことを親愛の情とともに思い出す。数多くの名門レースに参加した彼の輝かしいキャリアと権威が、当時の色丹島では求められていた。1984年に亡くなった後、長い間、彼の墓は手入れもされず乱雑な状態で放置されていた。その頃すでにクラボザボツコエ村長になっていたセディフ氏は、そのことに心を痛め、サハリンのスポンサーからの協力を取り付け、モニュメントを造成した。それが設置された場所は、元の墓があった場所ではない。(Shikotan News 2022/6/23)