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北海製缶100年 源流への旅

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1 カムチャツカからの出発 ベニザケ缶詰に賭ける

 小樽運河に面する北海製缶小樽工場第3倉庫は昨年暮れ、北海製缶(東京)から小樽市へ譲渡され、危うく解体を免れた。倉庫が建設されたのは、小樽運河完成の翌1924年(大正13年)。当時「東洋一」と評された巨大倉庫と周囲の工場群はどんな目的で、なぜ小樽に造られたのか。過去に幾度も訪れたカムチャツカ半島での取材ノートをひもときながら、創業100年を昨年迎えた北海製缶と第3倉庫の源流を探った。

(北海道新聞小樽後志版2022/2/13 )

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ウスチカムチャツカに残っていた日魯漁業東カムチャツカ工場跡(1995年10月、相原秀起撮影)

 同半島東沿岸、大河カムチャツカ川の河口に位置する港町ウスチカムチャツカ。95年10月に初めて取材に訪れた私に、現地ガイドは「浜に日本の工場の残骸がある」と興味深い情報を教えてくれた。

■浜に工場の跡

 鉛色のベーリング海が目前に広がる人影もない浜に、その廃虚はあった。陸側には活火山としてはユーラシア大陸最高峰のクリュチェフスカヤ火山(4750メートル)が雲を貫いてそびえる。

 工場跡は木造の柱が朽ち果て、壁は崩れ、長い歳月を感じさせた。付近で暮らすロシア人男性は「日本のサケの缶詰工場だった。子ども時代によく遊びに来て、日本人からお菓子をもらった」と思い出を語った。

 日魯漁業(現マルハニチロ)東カムチャツカ工場の跡だった。戦前から北海道の主力産業だった北洋漁業。その主力だったサケ缶の製造はここで始まった。

 日本は日露戦争(1904~05年)の勝利によってロシアから南樺太(サハリン南部)を割譲され、カムチャツカ半島オホーツク海の漁業権を得た。いわゆる「露領漁業」。漁業者たちはロシア極東の大河アムール川に進出し、さらにオホーツク海を越えて同半島へ向かった。

 その中に後に日魯漁業を世界有数の水産会社に育て、北海製缶の創始者となった堤清六(新潟県出身)と平塚常次郎(函館出身)がいた。西洋式帆船「宝寿丸」でカムチャツカへ初出漁したのは07年6月。堤は27歳、平塚は26歳だった。

■外国に輸出を

 小樽運河プラザ(色内2)内「喫茶1番庫」の店主で、北海製缶倉庫(当時)元取締役の孫に当たる佐々木一夫さんから、同年8月にウスチカムチャツカ(略称ウス・カム)で撮影された初漁の写真を提供していただいた。キングサーモンマスノスケ)とみられる巨大なサケを手にする笑顔の漁師と堤が写り、「北洋第一の好漁場 ウス・カムの初網」と説明がある。同年だけで3万匹もの漁獲があった。2人はカムチャツカの豊かさに圧倒され、無限の可能性を感じた。

 一つ問題が起きた。漁獲したサケは、日本人になじみがあるシロザケよりもベニザケが多かったのだ。今でこそ高価なベニザケだが、当時は価値が低く、苦労して持ち帰ったベニザケは問屋や加工会社に買いたたかれてしまった。

 「ベニザケは外国で人気があり、缶詰にして輸出すればよい」。ある男の助言に堤たちは賭けることにした。(小樽支社長・相原秀起が担当し、5回連載します)

 

2 サケ缶誕生 好漁場、助言受け生産

(北海道新聞小樽後志版2022/2/20)

 北海製缶の創始者である堤清六と平塚常次郎に、カムチャツカ半島でのサケ缶の生産を勧めたのが元海軍軍人、郡司成忠(ぐんじしげただ)(1860~1924年)だった。

 郡司は、1875年(明治8年)に日露両国間で樺太・千島交換条約が結ばれて、千島列島が日本領となった後、開拓団「報效(ほうこう)義会」を組織して北千島に入植、北東端の占守(シュムシュ)島に移住した人物だった。郡司は、対岸のカムチャツカにも詳しく、サケの好漁場であり、同時に英国などではベニザケが好まれて缶詰にすれば輸出品として有望であると助言したのだ。(北海道新聞小樽後志版2022/2/20)

■素人から出発

 堤と平塚たちはカムチャツカ初出漁から3年後の1910年(明治43年)、漁場のウスチカムチャツカに小さな缶詰工場を建てた。缶詰の専門家はおらず素人のにわか勉強だった。サケを3枚におろして骨を抜き、手頃に切って空缶に詰め、一つずつ手作業でコテを使ってハンダ付けした。殺菌のために釜に入れると缶は膨張するため、ふたに穴を開けて空気を抜き再びハンダ付けした。缶はやや不格好だったが、味はよかった。

 堤たちは苦労しながら同年、缶詰4ダース入り704箱、翌年は約2700箱を製造した。これがカムチャツカにおける日本人のサケ缶生産の始まりで、後年世界的なブランドになった日魯あけぼの印のサケ缶となる。戦後、政界入りする平塚はカムチャツカの若き日の思い出を秘書だった佐藤孝行氏(元総務庁長官、故人)によく語ったという。

■工場が各地に

 同工場を出発点として、半島各地に工場が建設され、大量の空缶が必要となった。こうした時代的な背景が21年(大正10年)の北海製缶倉庫(当時)の創業につながった。

 堤と平塚は郡司に対する恩義を忘れなかった。堤の実妹と結婚した平塚の妹の孫で、元ニチロ東京支社長の加藤清郎氏(87)は「2人は郡司を北方開拓の先人として尊敬し、葬儀にも参列して弔辞をささげた」と語る。

 北千島も北洋有数の漁場となり、郡司が開拓拠点を置いた占守島の片岡(現バイコボ)や幌筵(パラムシル)島にも日魯漁業傘下の缶詰工場ができた。

 2013年8月、取材で訪れた片岡の丘には日本時代の石碑「志士之碑」がぽつんと建っていた。郡司らの功績をたたえたものだ。海に面した工場跡には燃料タンクらしいさびた鉄製の容器がいくつも放置されていた。現在、占守島には住民はおらず、当時の栄華を知る者はいない。(相原秀起)

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昭和初期に撮影された日魯漁業東カムチャツカ工場。缶が並ぶ(市立函館博物館所蔵)

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占守島バイコボの港周辺に残る日本時代の缶詰工場の跡(2013年8月、相原秀起撮影)

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占守島に残る「志士之碑」(2013年8月、相原秀起撮影)
 

3 米国式の新工場 缶詰生産ライン、技師指導

(北海道新聞小樽後志版2022/2/27)

 現代のような建設機械もなかった1世紀前、ロシア・カムチャツカ半島でサケの缶詰工場はどうやって建設され、稼働したのか―。小樽運河プラザ(色内2)で「喫茶一番庫」を経営する佐々木一夫さん(71)が所有するアルバムは物語る。北海製缶倉庫(当時)取締役だった祖父阿部三郎さん(故人)が写真を整理して残したものだ。

 現場はカムチャツカ半島南端近くの西海岸オゼルナヤ。北海製缶の創始者であり、後に日魯漁業(当時「堤商会」)を育てた堤清六や平塚常次郎は、サケの好漁場だったウスチカムチャッカの漁区から追い出され、新天地を求めてオゼルナヤに進出した。

 1913年(大正2年)、缶詰の生産効率を上げるため、堤たちは缶を自動で製造し、次の工程で魚を缶詰加工する米国の生産ラインを導入した。新工場建設がスタートしたのは、人の背丈を超える雪が残る早春。沖の貨物船から缶詰製造に欠かせぬボイラーや工場建屋の資材が小型船に移されて浜へ。それを人力で引き上げ、柱を組み上げて簡素な建屋を完成させ、仮宿舎、野外食堂、漁獲したサケの洗浄所も作った。沖ではさっそく網起こしが始まった。

 阿部さん自身も現地に赴き、米国人技師とともに機械を設置した。アルバムは工場の詳細な記録を残す目的だったらしく、缶詰を蒸気で加圧殺菌する装置「レトルト」、魚を自動で切る「フィッシュカッター」のほか、製缶機械や発電室など、工場の主要部分を名称付きで記している。

 北海製缶小樽工場の渡部一雄工場長(59)は「初めて見る貴重な記録で興味深い。製造工程は基本的に現在とほぼ同じ」と驚く。漁獲したばかりのサケを缶詰に加工するのが理想で、冷蔵設備もない当時、現地に工場を造ったのは理にかなっているという。

 オゼルナヤ工場はわずか50日の突貫工事で完成し、正面には後の日魯漁業のトレードマーク「あけぼの印」が描かれた。1年後、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発、長期保存が利く缶詰の需要が一気に高まった。

 一方、カムチャツカのサケの漁期は6月から8月。サケ缶の製造機械は現地に残して、製缶機械だけを道内に移設すれば、機械を有効活用でき一般の需要にも応えることができる。操業開始から2年後、堤らは函館で製缶の専門工場を開業した。これが北海製缶の源流となった。(相原秀起)

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あけぼの印が正面に描かれたオゼルナヤ工場前での記念写真(佐々木一夫さん提供)

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オゼルナヤ工場に設置された自動製缶機械と技術指導を行う米国人技師(右端)=佐々木一夫さん提供

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「あけぼの印」などがデザインされた戦前のサケ缶のラベル=函館市北洋資料館

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4 東洋一の工場 立地の良い小樽に再建

(北海道新聞小樽後志版2022/3/6)

 鉄筋コンクリート造4階建て、全長約100メートル、奥行き約15~20メートル、延べ床面積約7200平方メートル。作家小林多喜二は、小説「工場細胞」で北海製缶第3倉庫を巨大戦艦に見立て「超弩級艦(ちょうどきゅうかん)」と表現した。倉庫の完成は1924年(大正13年)。主目的は、ロシア(当時ソ連)・カムチャツカ半島の缶詰工場向けの空缶を保管しておくことだった。

 北海製缶の創始者で、後に日魯漁業(現マルハニチロ)を育てた堤清六と平塚常次郎が、不格好なサケ缶を手作りしてからわずか14年。北洋を舞台とした缶詰産業は目覚ましい発展を遂げ、外貨獲得の花形となり、巨大な倉庫を必要とした。

 時計の針を少し戻す。堤らは同半島オゼルナヤ工場から製缶ラインを分離し、15年に函館に専門工場を建てた。しかし、5年後に失火で焼失。新工場の再建を急いだ堤は、小樽に白羽の矢を立てた。

 北海製缶小樽工場の渡部一雄工場長(60)は小樽が選ばれた理由を三つ挙げる。《1》カムチャツカまでの航海は、小樽からは宗谷海峡経由でオホーツク海を最短で進めるため、函館に比べて一昼夜短い《2》小樽は空知の産炭地と鉄路で直結し、汽船の燃料の石炭が割安《3》将来の樺太(サハリン)や千島の水産缶詰、道央の農畜産物の缶詰生産を考えた際の立地の良さ―である。

 日魯漁業が全額出資する北海製缶倉庫(当時)が21年設立され、国内最大手の製缶メーカーであった東洋製缶から道内の全事業を継承することになった。これが100年前のことだ。北海製缶倉庫は、小樽運河建設に伴って造成された埋め立て地に設立され、製缶工場に続いて、第1、第2倉庫を、最も南に位置する場所に第3倉庫を建設した。

 37年(昭和12年)に日魯漁業が発行した冊子「日魯の現況」などによると、同社の缶詰工場は同半島33カ所とオホーツク1カ所の計34工場、北海道から現地に送り込んだ季節労働者は2万人。1日のサケ缶生産能力は最大567万缶に達した。これらの工場群に空缶を供給するのが北海製缶倉庫の使命だった。日魯あけぼの印のサケ缶は現地から輸送船によって中米のパナマ運河を経て主に英国に輸出された。

 前36年の統計では、日本から対英国輸出品の第1位がサケ・マス缶詰で大半があけぼの印だった。英国のサケ・マス缶輸入国ランキングでも日本は、2位米国、3位カナダを抑えて首位。同冊子は北海製缶倉庫についても触れ「小樽港の最新式の大工場は東洋一であり、年間3億2千万缶の製造能力がある」と誇る。

 小林多喜二は、小樽を北海道の「心臓」に例えた。しかし、視野を広げれば、小樽と北海製缶は、世界各地を船で結んだ缶詰産業ネットワークの中心となり、缶や人、物資という血液を送り出す「もう一つの心臓」の役割を果たした。(相原秀起)

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建設途中の北海製缶倉庫第3倉庫(北海製缶提供)

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1943年(昭和18年)ごろのカムチャツカ半島の缶詰工場(▲印)=函館市北洋資料館

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日魯漁業が戦前製造したサケ缶の模型=函館市北洋資料館

 

5 第3倉庫の保存決定 原風景、市民の力で次代へ

(北海道新聞小樽後志版2022/3/12)

 北海製缶倉庫(当時)第3倉庫が完成した1924年(大正13年)当時、4階建て、全長100メートルの鉄筋コンクリート製の建物は、小樽で最も高く全国的にも珍しい規模だった。

 機能面の特徴は、運河側テラスにらせん状の滑り台「スパイラルシュート」や階段を設置、空缶が入った木箱を運河で待つ艀(はしけ)へ効率よく下ろし、内部にエレベーターと広い収納スペースを確保したことだ。

 運河の湾曲に合わせて倉庫の北西角は急カーブを描き、運河と海側の両壁面もわずかに折れ曲がる。「立体的かつ機能的であり、人の手のぬくもりを感じる。現代の愛想もない建物とは違う」と、小樽市文化財審議会長で、倉庫の保全活用策を検討した第3倉庫活用ミーティングの駒木定正座長(70)は語る。

 駒木氏は、第3倉庫は運河とともに歩んだ近代化産業遺産でもあると強調する。日露戦争(1904~05年)以後、日魯漁業(現マルハニチロ)と北海製缶はカムチャツカ半島など北洋の豊かな水産資源によって発展したが、太平洋戦争の敗戦によって経営の基盤や資産を一夜にしてなくした。その姿は、航路で直結していた樺太(サハリン)という大消費地を失った小樽と重なる。

 北海製缶は戦後、材料不足にあえぎながら再建の道を歩み、アスパラガスやスイートコーンなど多様な缶の生産を本格的に開始。第3倉庫は各種缶や輸出用缶詰の保管などに使われ、一時期は半導体の工場としても利用された。完成以来98年、老朽化が進み、雨漏りもして倉庫としての役割は終えた。

 一方、歳月を経て第3倉庫のたたずまいは運河と一体になり、市民の心の原風景になった。一昨年10月、北海製缶による倉庫解体の方針が明らかになって以降、多くの市民が倉庫を守ろうと声を上げ、勉強会や現地見学会の参加者数は予想を超えた。小樽発祥の企業である同社も、市民の声に応えて解体を取りやめ、昨年12月に倉庫と土地を市に無償譲渡した。

 北海製缶の子会社「昭和製器」(小樽)で長年働き、第3倉庫に愛着を持つ、小樽出世前広場の簑谷修代表(82)は「次は市や市民、経済界の出番。資金を集めて倉庫の耐震工事をして新たな命を吹き込み、小樽市の財政に寄与するような観光施設にしなければならない」と訴える。

 完成からほぼ1世紀。あやうく解体を免れた北海製缶小樽工場第3倉庫。今後どのような利活用の青写真を描くか。正念場はこれからだ。=おわり=

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多くの市民が参加した昨年4月の見学会

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完成直後の第3倉庫(北海製缶提供)

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倉庫の特徴であるスパイラルシュート