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「おいしい昆布に歴史あり」複雑で身近な関係を再認識

 東京の友人を富山県に招くと、昆布を用いた料理のバリエーションにしばしば驚かれる。すし屋に行っても、昆布締めは人気のネタだ。「富山の人って昆布が好きなんですね」と屈託なく喜んでくれるのはうれしいのだが、美味の裏には近世以降の北陸の複雑な歴史が存在している。(中日新聞2022/2/5)

 江戸時代、日本海側は、数多くの北前船が行き交い、北陸の港は活況を呈した。大阪を出発した船は、瀬戸内海から日本海側に入り、北海道はもちろん、さらに北の樺太をも交易の対象としていた。

 現在のほぼ富山県に当たる越中にも、伏木などに多くの船が寄港しており、昆布は北海道から送られていた。その後、明治に入って、富山県沿岸部の漁業が不振になった時、現在の黒部市生地(いくじ)地区周辺から多くの漁民が北海道に移り住んだ。特に現在「北方領土」と呼んでいる、択捉(えとろふ)・国後(くなしり)・色丹(しこたん)・歯舞(はぼまい)周辺は未開発の好漁場があったため、新天地として期待された。移住者はよく働き、漁以外の昆布の生産などにも精を出した。このようにして作られた昆布が、それまでの人的ネットワークに乗って富山に運ばれ、より一層食卓をにぎわすようになる。

 さて、富山と北方領土とのつながりは太いものがあったが、この状況は、太平洋戦争における敗戦で一変する。北方領土ソ連によってあっという間に不法占拠されてしまった。この際、住民の中には、直接北海道に引き揚げた者もいたし、収容所で長期間過ごしたり、樺太を経由してやっとの思いで日本にたどり着いたケースもままあった。帰国できたからといって、必ずしも故郷の富山県に仕事があるわけでもなかったため、本籍が富山県のまま今も北海道に住んでいる人たちは数多くいるし、いまだルーツである富山県とのつながりを失っていない家もある。

 富山にいると、日常においてこの北方領土とのつながりを感じることは少ないかもしれない。しかし一昨年、黒部市コミュニティセンター内に整備された北方領土史料室は、富山と北海道、そして北方領土との関係性を再認識させてくれるすぐれた施設である。

 筆者は、年末、黒部のとある温泉に家族と滞在し、周辺を観光して帰ろうと思っていたところ、予想外に厳しい吹雪に見舞われ、予定が狂ってしまった。そこで当初全く期待せずに、「とりあえず行ってみようか」というぐらいの気持ちで、家族とこの史料室を訪れてみた。

 ところが、予想はうれしい方向に外れた。ここでは学術資料はもちろんのこと、タブレット上で楽しむアプリや輪投げなどの遊具もあり、多様な年代の来館者が、楽しみながら北方領土を身近に感じられるように工夫されていた。近隣の行楽地を訪問の折には、ぜひちょっと寄り道して、富山と北方領土の関係性について思いをはせてみてはいかがだろうか。(井出明=金沢大国際基幹教育院准教授)

北方領土富山県富山県関係の引き揚げ者は1425人で、全国でも北海道に次いで多い。ほとんどは歯舞群島色丹島からで、明治以降に根室に渡った人々の多くが、そこから近い歯舞群島の周辺を開発し、コンブ漁などに携わっていたためとみられる。内訳は黒部市(835人)と入善町(488人)が大部分を占めている。

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