北方領土の話題と最新事情

北方領土の今を伝えるニュースや島の最新事情などを紹介しています。

択捉、国後、色丹航路 新フェリー初航海 同乗ルポ

 2021年6月2日。コルサコフ。港のターミナルから桟橋までバスに乗る。14:00。行進曲「スラブ娘の別れ」は戦争、兵役、または長い旅への別れを象徴する雷鳴だ。帝政ロシアソビエト連邦ロシア連邦の最も有名な「音楽のシンボル」の1つである。やがて携帯電話の接続が切れる。テレビ画面は何も映らなくなった。そして、夕日は海に沈む。船と人間の近代史の最初のページの幕開け... 6月2日から6日、新フェリー「ネベルスコイ提督」号が初めて乗客を乗せて南クリル諸島へ向かった。記者は、南クリル諸島への最初の航海に同乗した。(サハリン・インフォ2021/6/12)

f:id:moto-tomin2sei:20210614151714j:plain

ユジノクリリスク(古釜布)港に接岸したネベルスコイ提督豪

 かつては軍艦だけが自分の名前を持つ権利を持っていた。民間船は19世紀半ばからである。船の名前は常に特別な意味を持ち、特定の時代、歴史的時代を反映している。最近、船の「出生証明書」ともいえる名前に国民的英雄や公人の名前を付ける伝統が復活した。

 ゲンナジーイワノビッチ・ネベルスコイは、1813年にコストロマ州ソリガリチェスキー地区のドラキノ村で生まれた。1829年海軍士官候補生隊に入り、1832年に卒業し、ロシア艦隊の士官候補生になった。彼はバルト海黒海、地中海で任務に就き、1847年に新しく建設された軍用輸送艦「バイカル」の指揮官に任命された。1848年、露米会社とシベリアの船団のために貨物を積んでクロンシュタットを出発し、アムールの河口を探索するよう指示を受けた。

f:id:moto-tomin2sei:20210614152008j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614151958j:plain

 1849-1855年のアムール探検隊は、アムール川下流域を詳細に調査した。アムールは北と南の両方から航行可能であることを確認した。アムール探検隊は、それまでの地図の不正確さを修正し、初めて間宮海峡の本土沿岸を正しく地図化し、艦隊にとって非常に重要な帝国の港、ソヴィエツカヤ・ギャヴァンを開いた。

アムール探検隊のネベルスコイ海軍大佐は1850年、「アムールの口に触れない」という指示に反して、ニコラエフポスト(現在のニコラエフスクオンアムール市)を設立。そこに旗を立て、ロシアの主権を宣言する。ネベルスコイの行動は政府に不満と苛立ちを引き起こした。報告を受けたニコライ1世はネベルスコイの行動を「勇敢で高貴、愛国的」と称え、こう語った。「ロシアの旗が一度上げられたところで、それは決して降ろされるべきではない」--。

f:id:moto-tomin2sei:20210614151922j:plain

 ネベルスコイの発見は、1853年から1854年クリミア戦争中に重要な役割を果たした。英仏艦隊がロシアの船を破壊しようとし、アムールの河口にあるタタール海峡を通過した。遠征の行動と結果は国境問題の未知のものに終止符を打ち、ロシアと中国の国境を確立したアイグン条約(1858)と天津条約(1860)の締結の基礎となった。 

 2021年6月2日。ネベルスコイ提督から名前をとった新フェリーはロシア極東で南クリル諸島航路に就いた。択後島への道は1日もかからない。午前5時45分、日の出。果てしない空。太陽はまだ昇っていないが、その接近はすでに感じられた

f:id:moto-tomin2sei:20210614152352j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614152403j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614152422j:plain

 キトヴィ湾(内岡)では、「イーゴリ・ファルフトジノフ」号が出港し、桟橋を開けた。今年の秋には、もう1隻の船がラインに入る予定だ。「パベル・レオ―ノフ」号。サハリンへの到着は7月から8月に予定されている。

 島に到着した乗客の中には、サハリン州政府の運輸省と経済省の代表者、サハリン商工会議所、ロシア地理学会サハリン地域支部、そして20人の芸術家がいた。

 「ネベルスコイ提督」号と「パベル・レオーノフ」号の登場は、間違いなく輸送のアクセシビリティを高め、観光産業の発展をもたらすだろう。

 択後島はクリル海嶺で最大の島である。旅行者の目を引く最初のものは、湾の上にそびえ立つチリップ火山とボグダンフメリニツキー火山である。択後島には20の火山があり、その3分の1が活動している。

 択捉島観光は、オホーツク海のクリル湾(紗那湾)のほとりにあるクリルカ川が流れる中心地クリリスク(紗那)から始まる。人口1603人。クリリスクから56kmのところにブレベスニク空港(天寧飛行場)がある。 2014年9月22日、択後島に民間空港が開設された。近年、キトヴィからクリリスクまで2.7 kmの遊歩道が完成し、4つのレクリエーションエリアと街灯が整備された。

f:id:moto-tomin2sei:20210614152522j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614152538j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614152549j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614152603j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614152622j:plain

 択後島のヤンキト高原を初めて訪れた。固化した火山溶岩からなる奇観である。観光客はここで黒い西海岸を眺めるだけでなく、新石器時代初期の古代の人々の遺跡がここで見つかったことを知る。

f:id:moto-tomin2sei:20210614152808j:plain

 島の南にあるカサトカ湾(単冠湾)はハワイ諸島の米軍基地である真珠湾を奇襲するため日本海軍の機動部隊が集結した場所である。日本軍の要塞跡が残るミラービーチとデビルズロックがある。

 温泉はクリルへの旅行に不可欠な要素だ。択後島にはラドン、酸性など泳げる温泉がある。

 最も人気のある観光ルートはバランスキー火山(指臼山1134 m)。頂上に向かう途中には、温泉、泥の壺、噴気孔がたくさんあり、魅力的なポイントの1つは水温が約43度の沸騰する川の熱い滝である。

f:id:moto-tomin2sei:20210614152835j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614152851j:plain

 島の奥にあるレイドヴォ村(別飛)から4kmのところにある「ホット・ウォーター」という温泉と健康の複合施設に注目が集まっている。1990年代半ばまで、ここには療養所があった。戦前、日本人はここで病気を治療していた。当時の木造の鳥居を見ることができる。源泉は82度に達し、屋内には6つ区切られた木製浴槽があり、一年中リラクゼーションバスを楽しむことができる。

 ガイドなしでクリル諸島を観光するのはかなり問題がある。ヒグマは、訓練を受けていない旅行者に一定の危険をもたらす。バランスキー火山に向かう途中の「提督ネベルスコイ」の観光客グループは、2匹の子グマを見た。彼らは道路に沿って歩き、そして茂みの中に姿を消した。帰り道、大きなクマが道をふさいだ。ここではクマは食べ物を手に入れるために道路から離れないことがよくある。

f:id:moto-tomin2sei:20210614152918j:plain

 22時。船に戻った。キトヴィ湾(内岡湾)に花火が上がった。甲板に上がってきた船の機関士と天気について話した。夜は荒れそうだ。

 6月4日、天候悪化によりスケジュールの調整が行われた。海は17m~22mの強風が吹いた。午前10時、私たちはまだ択捉島沖にいた。船内放送では「天候の回復を待っている」とアナウンスがあった。

 荒天時の楽しい贈り物があった。20年前にサハリン芸術大学の教師と学生で結成された民俗アンサンブル「ホワイト・デュー」の船上でのパフォーマンスだった。ここ数年、アンサンブルを率いているのはエレナ・アシュコは「コサックの歌を含め、ロシア各地で人気のある作品で構成し、学生が卒業する度に新しい学生を募集している」と話した。

f:id:moto-tomin2sei:20210614152946j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614152959j:plain

 6月5日。船内放送が船の出発を知らせる。「ユジノクリリスク(古釜布)に向けて出発する」--クリル諸島の天候はくるくる変わる。船は、ドゾルヌイ湾(丹根萌湾)を通過して択捉島最南端のチャゴボイ半島をかすめ、択捉島国後島を隔てるエカチェリーナ海峡(国後水道)に入った。アダム・ラクスマンが率いるロシア最初の公式使節が1792年、ロフツォフ船長が操船する船エカテリーナ号で日本を訪れたことから、1811年にゴロブニン少佐によってその名が付けられた。

 

f:id:moto-tomin2sei:20210614152340j:plain

 国後島のユジノクリリスク(古釜布)で最初に目にしたものは、桟橋からたまった雨水を水夫ゲルトラクターだった。「ネベルスコイ提督」号の最初の航海が3つのクリル地域の創設75周年に行われたことは注目すべきことだ。1946年6月5日付のソビエト最高会議幹部会令によって南サハリン州内にセベロクリリスク地区、クリル地区(中心地・シャナ)、南クリル地区(中心地フルカマッㇷプ)が誕生した。6月5日付の地元紙「国境にて」は、この歴史的出来事を特集していた。公式データによると、2021年1月1日現在、南クリル地区の事項は12,000人。このうち都市部に7,900人が住んでいる。

f:id:moto-tomin2sei:20210614153407j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614153420j:plain

 ユジノクリリスクに停泊中に乗客は島の観光に出かけた。ユジノクリリリスク--ゴロブニノ(泊)幹線道路を通って、ゴリャチー・ブリャチ(瀬石)に向かった。ここに温泉治療施設がある。川には3×6mの鉱泉、プールがあり、井戸からの温泉の温度は38-39度。適応症リストには皮膚病--乾癬、湿疹、神経性皮膚炎、骨軟骨症、関節炎など。

船に戻る。「スラブ娘の別れ」の曲に合わせて、タグボートが波に揺れ、舟の出発を制御している。

 

f:id:moto-tomin2sei:20210614153320j:plain

 18時に色丹島に到着した。長さ30km、幅9km、252㎡の島はヨーロッパの1つの週に相当する。マロクリルスカヤ湾(斜古丹)は典型的なカルデラ。ピーク「412」(斜古丹岳)は島の最も高い地理的ポイントで、住民はかつての大地震で1.5~2m低くなったという。

 アイヌ語で「シコタン」は人口の多い場所を意味する。アイヌの指導者だったヤコフ・ストロゾフはマロクリリスコエ(斜古丹)の日本墓地の中に埋葬されている。1880年代、日本人はクリルアイヌ色丹島に移住させた。彼らは沿岸に住んだが、多くのクリルアイヌが死んだ。遺骨は北海道に運ばれた。(記事のママ)

f:id:moto-tomin2sei:20210614153511j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614153619j:plain

 ここにはマルテイン・シュパンベルクの記念碑がある。1738年から1739年に日本とクリル諸島の沿岸を調査した航海者である。島はしばらくの間、シュパンベルク島と呼ばれた。記念碑は1989年に建てられ、2019年に再建された。

f:id:moto-tomin2sei:20210614153549j:plain

 丘の上に、ダニイラ。モスコフスコヴォ教会がある。住民はコストロマ地方のスジスラヴリにあったものを分解し、色丹島に運んで組み立てなおした。

f:id:moto-tomin2sei:20210614153645j:plain

 クライ・スベタ岬(世界の終わり岬=エイタンノット崎)は南クリル諸島観光のハイライトの1つだ。岬に続く道の状態は良好だ。いくつかの場所では、道路は川に沿って走っている。地元住民が造った手作りの板の橋があり、通り抜けることが出来る。岬にある灯台は高さ15m、鉄筋コンクリート造りだ。視程範囲は22マイル。螺旋階段で灯台上部に上がっていける。塔の内側のひび割れは1994年の大地震の結果だ。螺旋階段の3段目と4段目の間に、塗装された木製の床と広い窓がある半円形のベランダがあり、太平洋の壮大な海原を眺めることが出来る。灯台だけでなく、日本人は管理棟、貯蔵施設、住宅、電源室など複合構造物を構築した。かつてはそれぞれの建物が渡り廊下でつながっていた。ここでは信じられないくらいの強い風が吹くので、渡り廊下は人々が外に出なくても済むように安全を確保する役目があった。

f:id:moto-tomin2sei:20210614153716j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614153733j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614153745j:plain

f:id:moto-tomin2sei:20210614153757j:plain

 22時、「ネベルスコイ提督」号は色丹島のマロクリルスカヤ湾を出港し、サハリンに向かった。