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ユーリ・トマソン シコタンに生きて57年

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 南クリル地区の創設75周年に向けて、国後島色丹島に長く住んでいる人々を紹介するシリーズ。今回は1964年に色丹島にやって来たユーリ・イオシフォビッチ・トマソンです。彼は、国後島色丹島の両方の島でよく知られている存在だ。※ビザなし交流にも携わっていたトマソンさんのお父さんです。 (kurilnews.ru 2021/5/14)

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 トマソン沿海地方のシュコトヴァ村の出身。1964年に軍を除隊して故郷に戻った。そこで、同郷の妻タマラと結婚した。シュコトヴァの家はボロボロで、親戚も残っていなかった。「ちょっとだけ鉄道で仕事をしていたが、妻が先に色丹島に行き、自分は妻について行った」と回想する。

 色丹島に着いたのは9月。初秋の色丹島はカモメの鳴き声、波の音で彼を迎えた。海は見慣れていたにもかかわらず、色丹島の美しい景色が若い男を惹きつけた。

 1956年に日ソ共同宣言が署名された後、色丹島の既存の水産加工場は閉鎖された。労働者は国後島に移され、少なからず本土に戻っていった人もいた。マロクリリスコエ(斜古丹)村に残ったのは国境警備隊と船員、民間人はほんの一握りだった。平和条約締結後に、色丹島歯舞群島が日本に引渡されることが計画された。同時に、日本は国後島の返還要求を取り下げなければならなかったが、アメリカから圧力がかかり、条約締結はならなかった。そして1959年に、漁師たちが色丹島に戻って来て、実験的なサンマ漁が始まり、品質の良い缶詰を製造する技術が開発された。色丹島での生活が再開されたのだった。

 当時の色丹島は活況を呈していた。休んでいる時間などなかった。ユーリのキャリアがスタートした。「マロクリリスコエ村の第24工場で働き始めた。工場は1960年に再建されていた。日本人は1950年代にサンマ漁をクリルの住民に教えた。難しい漁だったが、サンマは灯りに集まり、私たちの電球は貧弱な光を放っていた」と、彼は言います。

 最初は缶詰90個が入った箱を運ぶ単純労働だった。職長になった。間もなく、浮き桟橋を建設する部隊が組織され、彼は分隊の副隊長に任命された。「組織的な作業が始まった。サハリンから2台のブルドーザーと掘削機が運ばれた。それでも資格を持つ人と設備は不足していた」と回想する。その後1972年に彼は第24工場の上級職長になる。サンマの加工には1万5,000人が従事していた。

 1980年に運命が変わる。彼は工場の建設工事を率いることになった。1991年には色丹島で最初の協同組合を組織した。海産物の貿易、栽培漁業にも携わっていた。「ウニとホタテの養殖を行った。それは非常に成功したが、大変だった。今はその分、ゆっくりしているよ」と彼は笑った。

 ユーリは多くの勲章をもらっている。彼の名前はサハリン州の歴史を記した本にも載っている。また、南クリル地区の名誉市民でもある。彼の息子は色丹島で有名な人だ。シュパンベルク灯台の技術者であり、誰よりも色丹島に詳しい歴史家でもある。彼は、島の観光開発でも成功を収めてきた。