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南クリル地区創設75周年 バレンティーナ斜古丹郵便局長「色丹島には8,000人の若者、学生が働きに来ていた」

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 南クリル地区創立75周年に向けて、地域に古くから居住する住民を紹介するシリーズ--。今回は色丹島マロクリリスコエ(斜古丹)郵便局の責任者であるバレンティーナ・ミハイロフナ・リシャファイエワさんを取り上げる。彼女は1979年にノボチェルカッスクから色丹島に来て以来、島が第二の故郷になった。(kurilnews.ru 2021/3/23)

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 生まれ故郷のロストフ地域での暮らしは、若い家族にとっては厳しいものだった。彼女と夫は自分たちのアパートを手に入れるための方法を考えていた。「当時、私はまだ24歳で、もっと広い世界を見たかった。それで色丹島の魚の加工場に働きにきた。当初は6カ月の予定だったが、すっかり気に入って留まることにした」--。

 その結果、夫婦の家は故郷のノボチェルカッスクではなく、色丹島で購入されることになった。故郷から連れて来た2人の子供は色丹島の高校を卒業した。シコタン地震の後に島を出て、バレンティーナさんの故郷ロストフ地域に戻った。今、子供たちには、家庭を持った子供たちは、孫を連れて色丹島を訪ねてくる。

 「マロクリリスカヤ湾(斜古丹湾)をぐるっと歩いて回ると、そこは楽園のようだった」とバレンティーナさんは言う。「当時、若者や学生が約8,000人も島に働きに来ていた。誰もがやるべき仕事があり、余暇を楽しんだ。都会にはない島の暮らしを満喫した。仕事が終ると、クラブに繰り出して家族で楽しんだ」--。

 バレンティーナさんは、当時、島への食料品などの供給に問題はなかったと振り返る。「必要なものはすべて店にあった。魚がたくさん獲れた。サンマはまだ珍味とみなされていた時代で、本土では見たこともなかった。島では、その珍味が簡単に手に入った」--。

 6カ月の予定だった仕事が終わると、彼女は水産加工場の管理職になった。4年後には指導部門で働いた。現在より、はるかに多くの漁船が入港していた。そして、2000年代の初め、バレンティーナさんはマロクリリスコエ郵便局を率いることになり、今日まで働き続けている。

 シコタン地震の後、島は停滞と荒廃の時期を過ごしたが、2000年代に入ると、目を見張るような発展を遂げた。工場は拡大し、桟橋が整備され、住宅が建設され、アスファルト舗装がお目見えした。

 仕事を引退した後、暖かい地域に移住したいと思うか?と問うと、「時々ね」と認めた。しかし、まだ決心がつかない。島を離れるのは寂しい…彼女は人生の多くの時間をここで過ごしたのだから。