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レニングラード包囲戦を生き延び、日本と北方四島との架け橋になった人

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ナチスドイツによるレニングラード封鎖から解放された記念の日である127日に合わせて、国後島の新聞「国境にて」に、この封鎖を体験したスモルチコフさんの記事が掲載されていた。スモルチコフさんは四島交流事業(ビザなし交流)や北方墓参、自由訪問の四島側窓口だった「クリル・日本センター」所長として、四島との架け橋になった人である。

  ヴァレンティン・アレクセヴィッチ・スモルチコフは技術教育を受けた後、レニングラードの様々な企業で10年以上働いた。そして色丹島のマロクリリスコエ(斜古丹)にある水産加工場オストロブノイでエンジニアとして働いた後、国後島に移住した。南クリル地区のソビエト連邦共産党地区委員会の第一書記を務め、漁業会社を率い、1977年から2013年まで「クリル・日本センター」の所長を務めた。

 ヴァレンティンの父はソビエト時代のロケット開発における主要デザイナーの1人だった。ミサイルシールドの開発者であるS.コロレフと一緒に、1人の警察官の告発によって逮捕され、グラグ(強制労働収容所)に送られた。ヴァレンティンの母親は「人民の敵」の妻としてアクモラ収容所に送られた。そこは祖国の裏切り者の妻たちが収容された場所だった。

 4歳の子供だったヴァレンティンは孤児院に引き取られ、戦争のすべての困難を身をもって体験した。ナチスレニングラードを包囲した後、物資の供給や避難路として使われたのが結氷したラドガ湖を通る「生命の道」だった。この「生命の道」に沿って、孤児院から子供たちを避難させる試みは悲劇的な結果に終わった。敵機による夜間空襲によって子供たちを乗せた53台の車のうち49台が割れた氷の下に沈んでしまったのだ。ヴァレンティン・スモルチコフを含む4台の車がレニングラードに戻った。生き残った子供たちは、対空砲台に分かれて預けられた。

 戦後の1948年に、母親は孤児院の1つでヴァレンティンを見つけた。それから1980年まで、彼はレニングラードに住み、勉強し、そして働いた。クリル諸島の南部の島に28年間住んだ。最初は色丹島で、その後の15年間は国後島・ユジノクリリス(古釜布)で。ヴァレンティン・アレクセーヴィッチは、ナチスの封鎖からレニングラードが解放された日に、毎年ロシア大統領から個人的な祝辞を受け取っている。今、彼はサンクトペテルブルクで家族(妻、息子、娘)とともに穏やかな日々を送っている。私たちはヴァレンティン・アレクセヴィッチ・スモルチコフの健康を祈っている。(kurilnews.ru 2921/1/29)

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