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日本のスパイとして粛清された男…偉大なるワシリー 黒帯の僧侶 正教会の忍者 ロシアのクマ

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人生は闘いだ

(citysakh.ru 2020/12/30)著者ダニイル・パンクスチャノフ

 「偉大なるワシリー」「ロシアのクマ」「正教会の忍者」「黒帯の僧侶」「日本のスパイ」--私たちの偉大な同胞ワシリー・オシチェプコフには様々な呼び名がある。彼の本当の運命は創作された物語よりもずっと魅力的だ。子供や若者はジェームズ・ボンドスパイダーマンなどの外国の架空のスーパーマンにひかれるが、私たちには本当のヒーローがいる。

 サンボの創設者の1人、ワシリー・オシチェプコフは1892年12月25日(新暦1893年1月6日)にアレクサンドロフスキー・ポスト(現在のアレクサンドロフスク・サハリンスキー)で生まれた。

 サハリンの囚人の孤児である彼は、ロシアで最初の柔道家であり、サンボの創設者であり、ソビエトの諜報員リヒャルト・ゾルゲの前任者でもあった。

スターリンの時代、ワシリーは日本のスパイとして1937年に粛清された。このため長い間、その名前が人々の口にのぼることはなかった。公的な資料によると、彼は心臓発作のためブティルカ刑務所で亡くなっている。皮肉なことに、彼が亡くなった10月10日は、モスクワとレニングラードのチーム間で、最初のサンボの試合が行われた日だった。ワシリーは1957年になって名誉が回復された。

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 ワシリーは囚人のマリア・セミョノフナ・オシチェプコワと大工のセルゲイ・ザハロビッチ・プリサックの息子として生まれた。父親に関する情報はほとんど残っていないが、母親についてはウラジオストクにあるアーカイブの個人ファイルの中に、ワシリーの誕生記録が残っている。

 マリア・オシチェプコワは1850年、ベルミ地方の農民の子として生まれた。犯罪を犯し17年6カ月の刑を宣告されたが、逃亡した。20か月後、彼女は追い詰められ、再び逮捕される。15年間の重労働と60回のムチ打ち刑が追加され、刑期は合わせて32年6カ月となった。彼女は刑に服するために、1890年の秋、オデッサから汽船でサハリン刑務所に送られた。

 1901年3月1日、マリアは重労働から解放され、入植地に送られた。1904年4月25日にリコフスコエ(キロフスコエ)の村で亡くなっている。父親も、その2年前に亡くなっていたため、ワシリー少年はアレクサンドロフスキー孤児院に収容された。世話をしたのは父親の友人であるエメリャン・ヴラディコだった。

 サハリン島軍管理局の上級書記官(中佐の階級に相当)で、少年の代父でもあるゲオルグ・パブロビッチ・スミルノフは、サハリン島の知事であるアルカディ・ミハイロビッチ・バリュエフに対して、14歳になったワシリーが日本の神学校で勉強できるよう留学リストに名前を載せてもらうため積極的に働きかけた。

 別の情報もある。少年の保護者はアレクサンドロフスクにある学校の教師であり、名誉市民だったコストフという人物で、彼が日本のニコライ大司教に少年を受け入れてくれるよう手紙を書いたという説だ。

 1907年、10代の若者はまったく異なる文化を持つ日本に渡った。一部の研究者は、彼はロシアの諜報機関によって送り込まれたと信じているが、別の研究者はこれに断固として同意しない。ともかくワシリー・オシチェプコフはニコライ堂付属東京正教神学院で学ぶことになった。

 ニコライ大司教はワシリーの落ち着いた性格と礼儀正しさを評価していた。学校は完全な日本式で、学生たちは日本式の服を着て、日本食を食べ、布団で寝た。約20人いたロシア人学生の誰よりも、彼は日本的だった。

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 ワシリーは、当時の優れた指導者であり、柔道の創始者として知られた嘉納治五郎の影響を受けた。彼のおかげで、彼は高いレベルの身体的トレーニングだけでなく、優れた精神的・道徳的な教育、外国語の知識(日本語、中国語、英語)も身に着けた。

 オシチェプコフは神学校で柔道に励んだ。 1908年以来、この武道は日本の学校教育に採り入れられていた。同様の規則が正教会の神学校にも適用された。その後、嘉納治五郎が1882年に設立した有名な講道館柔に入門する。しかし、そのために、青年は厳しい入門試験に合格しなければならなかった。講道館アーカイブには、1911年10月29日にワシリー・オシチェプコフが入門した記録が残っている。

 入門希望者は、最高の礼節を守り、嘉納治五郎にお辞儀をして、彼から学びたいという願望を表明しなければならなかった。嘉納は黒帯の有段者1人を指名して、入門希望者の相手をさせた。畳の上での闘いは新参者が意識を失うまで続いた。それから彼は庭に連れ出され、冷たい水をかけられた。翌日、決められた時間に、道場に戻り、またお辞儀をして、修業の意思を確認するのだった。オシチェプコフもそのような試験を受けた。

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 稽古はそれほどでもなかったが、ロシアに戦争で勝利した国の若者が敗戦国のティーンエイジャーをどのように扱うか、容易に想像が出来るだろう。ルールのあるスポーツではなく、本当の敵としみなしていた。さらに、実際に戦争を経験した軍人や、最前線で殺害された人々の親戚も、そこにはいた。稽古の中で、対戦相手がロシア人の肋骨、腕、脚を何度も壊したが、ワシリーに対しては、それが難しいことがわかった。

 「今でも、日本の柔道家は、日本の稽古がヨーロッパ人には耐えられないと思っている。稽古は厳しく、冷酷だった」--ジャーナリストで、武道と格闘技の歴史家M.N.ルカシェフは言う。当然のことながら、ワシリーと一緒に柔道を始めた人は、厳しい試練に耐えられず講道館を去った。

 オシチェプコフはすべての試験に堂々合格し、指導者やライバルの尊敬を集め、1913年6月15日に初段を取得した。初段の試験は3人の黒帯を連続して打ち負かす必要があった。彼の卓越した能力に、めったに人を褒めることがなかった嘉納治五郎でさえ、一目置いていた。その後、日本の新聞は彼について次のように書いた。「ロシアの熊はその目標を達成した」--。数年後、ワシリーは2段の昇段試験に合格し、日本のアスリートの間で名声を博した。ワシリー・オシチェプコフは柔道で黒帯を授かった最初のロシア市民であり、数少ないヨーロッパ人の1人になった。

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 その時までにオシチェプコフは完全に日本に定住していたが、ロシアに戻ることを望んでいた。 1914年、講道館の卒業生はウラジオストクのアムール軍管区の本部で軍事通訳として働き始めた。同時に、ウラジオストク・スポーツ協会の後援の下で柔道研究会立ち上げ、そこで彼は地元の警察と協力して護身術を指導した。さらに、彼はロシアと日本による最初の国際柔道大会を催した。この歴史的な試合に関する記事は、1917年7月4日付の地元新聞「ダレカヤオクレイナ」に掲載された。柔道研究会は1920年まで存在した。オシチェプコフの戦いを見た、ウラジオストク日本艦隊司令官の加藤提督は「ヴァシリー・ザ・マグニフィセント(偉大なるヴァシリー)」と、彼を称えた。

 1918年、日本による極東占領の開始時(1918-1925)、オシチェプコフは地下のボルシェビキと協力し始めた。ソビエト諜報活動のエージェントの1人であるレオニード・ブルラコフは、次のように書いている。「彼は社交的で、すぐに人々の信頼を得ることができた。真実と正直さは、オシチェプコフの特質として指摘することができる」--。

1920年から1927年まで、映画配給会社を営む実業家を装って、サハリンやハルビン、神戸、東京でソビエト諜報機関の任務を遂行した。特に、ワシリーはサハリン北部における日本軍の配備、その構成、武器、指揮官の特徴などに関する貴重な情報を伝えた。彼はまた、日本軍がサハリン北部から撤退する可能性について、その時期と条件について報告した。これらのデータは、中国におけるソ連の全権代表であるL. M.カラハンに伝えられた。これは、ソ連と日本の関係の基本原則に関する北京条約(日ソ基本条約)の準備に非常に役立った。オシチェプコフは彼が生まれた小さな故郷・サハリン北部のロシアへの返還に重要な貢献をした。

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 彼は、日本軍による細菌兵器の極秘研究に関する情報を入手した最初の諜報員となった。後にそれは「731部隊」として知られるようになった。また、満州における日本軍の政策と作戦に関する機密情報を大量に入手した。

 明らかな成功にもかかわらず、オシチェプコフは日本から呼び戻された。それは日本の諜報機関と警察の間で強い疑惑を引き起こした。作家のアンドレイ・クラノフはそれを失敗と呼んでいるが、オシチェプコフではなく、「知性も海外勤務の経験もない、嫉妬深い」彼の上司の失敗だった。

 祖国に戻った私たちのヒーロー、オシチェプコフはつまらない横領の容疑をかけられ、告発された。スパイ活動に費やしたすべての資金を文書によって確認できるわけがなく、彼は自分の資産を売り払って返済しなければならなかった。それで訴訟は終結したが、東京への道は閉ざされた。しかし、武道は彼の人生の主要な部分を占めるまでになっていた。

 ワシリーは、柔道が人間の決断、冷静さ、スピード、敏捷性、忍耐力、そして最も困難な状況から抜け出す能力を発達させ、敵の力を利用して、自らの力を温存するものと考えた。彼の考えでは、赤軍の兵士にこそ、それが必要だった。1930年代後半に、ソ連で初めてウラジオストク沿海地方体育評議会が柔道のインストラクターとコーチのための6か月の研修コースを開催した。オシチェプコフはその監督を務め、10人の指導者を育てた。その中には、大祖国戦争で亡くなったソ連軍の指揮官で、後に英雄となるドミトリー・フェドロビッチ・コシツィンがいた。

 1927年から1929年にかけて、彼はシベリア軍管区(ノボシビルスク)の本部で軍事通訳として勤務するかたわら、プロレタリアスポーツ協会で柔道を教えた。当時のノボシビルスクは大都市で、殺人、強盗、強姦など犯罪が毎日発生する危険地帯だった。1928年11月23日付けの警察の報告によると、夕方、2人の武装強盗が妊婦に銃を突き付けた。その現場に居合わせたオシチェプコフは、1回の動きでリボルバーを強盗の手から払い落し、ノックアウトした。オシチェプコフは警察にリボルバーを手渡し、状況を説明した。そして、軍管区での仕事の性質上、調書に自分の名前が載らないよう配慮を求めた。

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 その後、オシチェプコフはモスクワにある赤軍の戦闘訓練局に移された。1929年11月29日、軍の新聞「クラスナヤズヴェズダ」は、「VZO」(Vasily Sergeevich Oshchepkov)と署名された、「ソビエト連邦における『juu-do』の普及」というタイトルの記事を発表した。

 また1931年には、軍がオシチェプコフによって書かれた「白兵戦に関するマニュアル」を初めて発行した。

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 オシチェプコフのおかげで、1932年9月1日、高等教育機関に新しい学問分野「柔道」が登場した。その後もオシュチェプコフは、国立中央体育研究所で国際武術、中国武術レスリングを学び、戦闘への適用可能性という観点から分析した。さらに、ボクシングとフランスのサバットレスリングを研究し、柔道を基礎にしつつ、より完璧な応用レスリングを作り始めた。それは後にサンボとして知られるようになる。

 彼は戦いの条件を変えた。畳の代わりに、より柔らかいレスリングマットを導入した。レスラーの衣装にも変更が加えられた。日本の道着はジャケットとパンツに置き換えられ、足には特別な軽いブーツを履くようにした。

 ソ連の体育研究所と専門学校の全ての卒業生は柔道の基準に合格し、教える準備が出来ていなければならないことが、法律によって定められた。オシチェプコフは映画を通して柔道の普及に力を入れた。今でいうコマーシャル・フイルムを撮影した。1936年、ワシリーはソ連人民委員会の下で新しく設立された身体文化とスポーツのための全組合委員会の柔道部門を率いた。

 しかし、1937年、資本主義の日本から生まれたシステムとしての柔道は、体育学校や専門学校のカリキュラムから除外されることになる。

 1937年9月29日、ルビャンカ(ソ連国家保安委員会KGB)は命令を発した。「オシチェプコフ・ワシリー・セルゲイヴィッチはソ連に住んでいる間、日本のためのスパイ活動に従事していることが明らかになった。…第58条6項に基づいて市民オシチェプコフを連行し、拘禁すべきである」

 ワシリー・セルゲイビィッチのアパートの捜索で、日本の銃剣が見つかった。お土産として日本から持ち出したものだった。オシチェプコフは、1905年モデルの日本軍が使う有坂ライフルを所持していたが、それは武道のデモンストレーションで敵役が使う武器として使用したものだった。

 1937年10月1日から10月2日の夜、オシチェプコフは日本のスパイとして逮捕され、その10日後に亡くなった。刑務所の書類によると死因は「心臓病。狭心症」だった。彼は長い間狭心症に苦しんでおり、ニトログリセリンを手放せなかった。逮捕後に連行されたブティルカ刑務所の独房46号では、薬の所持は認められなかった。

 オシチェプコフは妻と一緒に「Days of the Turbins」を観劇するため、チケットを購入していたが、ちょうど公演が始まる5分前に、彼は独房で死んだ。当局は妻に夫の死を告げなかった。妻は、それから1年半の間、夫に宛てて手紙を出し続けた。

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