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ロシア人による囲碁対局を写した最古の写真 1946年ソ連占領下の択捉島・留別で撮影された

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 1月22日付のサハリン・クリル通信電子版に、第41回世界囲碁選手権が6月にウラジオストクで開催されるという記事が出ていた。ロシア人による囲碁の対局を記録した最初の写真は、1946年、ソ連占領下の北方四島択捉島で撮影されたものだった。ロシア囲碁連盟の機関紙(第21号)に詳細が紹介されている。

「一枚の写真の話」

 ロシアに囲碁を最初に紹介したのは1882年の雑誌「Niva」だった。ライプツィヒの化学者オットー・コルシェルトが書いた文章を翻訳した記事だった。この雑誌は、当時非常に人気があり、発行部数は1900年までに23万5,000部もあった。その後、「Ogonyok」(1882年) 「Rainbow」(1885年)でも取り上げられ、ロシア人は雑誌から囲碁を学んだ。

 1965年にレニングラード囲碁愛好家グループ結成され、彼らは自分たちが囲碁のパイオニアだと主張してきた。1968年に開かれたソ連で最初のトーナメントの対戦表や出場者の写真が残っている。

 しかし、最初に囲碁の対局をしたロシア人はレニングラードの人々ではなかった。ロシア人による囲碁の対局は、第二次大戦直後のクリル諸島(千島列島)で行われていた。日本の新聞(毎日新聞)の記事(2018年2月27日)が出るまで、そのことを知る人はほとんどいなかった。

 

毎日新聞2018年2月27日

日ソ混住の写真集「囲碁の少女」は私 択捉出身の74歳

 第二次世界大戦後にソ連が占領した北方領土で日本人と当時のソ連人が混住している様子を撮影した写真集に、択捉島出身で当時3歳の張間葉子さん(74)=札幌市中央区=が写っていることが道根室振興局の調査で判明した。

 写真集は2015年に刊行された「千の島を巡る1946年のクリル探検」。その中の「囲碁の女の子」は、ソ連人同士の囲碁の対局を見守るもう一人のソ連人の膝の上に、幼いおかっぱの少女が座っている。撮影日は1946年9月19日と記されている。

 張間さんは、47年9月に択捉島を強制退去させられる際、留別(るべつ)国民学校長だった父文桜(ぶんおう)さん(83年死去)が持ち出した縦2.3センチ、横3.6センチの写真を所持。同じソ連のカメラマンが撮影し写真集とほぼ一緒のカットだったことから特定できた。

 振興局職員の聞き取りに「「母がアルバムに入れて大切に保管してくれたから、70年以上たった今でも『この写真が私です』と言える。持ち出した写真がなかったら、私だとは絶対分からないだろう」と話したという。張間さんによると、撮影場所は国民学校の裁縫室。母八重さん(89年死去)から「物おじせず、よく遊びに行って(ソ連人から)パンをもらって帰ってきた」と聞かされていた。

 振興局は「強制退去のときに大半の写真が没収されており、ソ連占領下の北方領土で暮らす日本人の写真はほとんど残っておらず貴重」し説明。3月3日に根室市の道立北方四島交流センターで開く「北方領土遺産事業ザ・ファイナル報告会」などで紹介する。

 振興局はこの写真集の中に、色丹島に住んでいた根室市の男性の9歳時の姿があることを突き止めている。【本間浩昭】

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写真集の詳細について

 「千の島を巡る1946年のクリル探検」

(原題По Земле Тысячи островов. Курильская экспедиция 1946 года) 

  写真集には、1946年にソ連科学アカデミーの科学者とソ連地理学会のプリモルスキー支部クリル諸島(千島列島)に遠征した時の写真とドキュメンタリー資料が含まれている。遠征には地理学者、地質学者、火山学者、生物学者、地図製作者、民族学者らが参加した。

 この中に写真家イワン・クワチが含まれており、彼が撮った写真は、遠征から約70年後にサハリンのアーキビストによって偶然発見された。ネガは日本のライスペーパーで注意深く包まれていた。残念ながら、53本のフィルムのうち8本は傷みがひどく修復できなかった。それでも、イワン・クワチの1883枚のクリル諸島の写真は完全に保存されている。写真集には250枚が収録されている。

 写真集の出版社に連絡したところ、囲碁の写真に写っている打ち手の1人が、遠征隊の助手として参加したA. ヴェルギン(写真右側の男性)であることがわかった。