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<安藤石典と領土返還運動75年>上 四島復帰、GHQに直訴

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 「お客さん、ラッキーですよ。きょうは島がよく見える。あれが国後です。目の前にある島、みんな取られてしまったんです」

 根室納沙布岬にある土産物店「レストハウス請望苑(せいぼうえん)」社長、竹村秀夫(69)の朝は客とのそんな会話から始まる。新型コロナウイルスの影響で来客が激減しても営業は続けてきた。

 「おやじが生きていたらきっと言ったと思う。島の説明をせい。それが仕事だろうって。店を閉めたら、おやじたちがやってきたことが何もならないような気がしてね」

 竹村は苦笑しながらそう言う。

 1945年(昭和20年)暮れ、当時の根室町長、安藤石典(いしすけ)が連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーに宛てて陳情書を提出した。歯舞漁業会(現在の歯舞漁協)会長だった竹村の父孝太郎も行動を共にした。(北海道新聞釧路・根室版2020/12/1)

■「米軍占領下に」

 安藤が起草した陳情書は、歯舞群島根室の一部であり、色丹、国後、択捉は「封建時代より日本国土」と主張する。その上で、ソ連軍による略奪、銃殺が相次いでおり、四島を米軍の占領下に置くよう求めた。日付は75年前のきょう、12月1日。この日が北方領土返還要求運動の始まりと言われるゆえんだ。

 陳情書は安藤と竹村、歯舞村長の高薄(たかすすき)豊次郎の3人がオホーツク管内美幌町に進駐していた米軍に届けたとされる。一行は水杯を交わし、逮捕も覚悟の上だった。竹村の妻一枝が生前、そう証言している。一枝は後に「請望苑」の前身となる無料休憩所を開設した。

 市街地の8割を焼失し、約400人が死亡した根室空襲から5カ月足らず。北方領土からは着の身着のままの島民が続々と脱出してくる。混乱の中での懸命の訴えだった。

 翌年、安藤は「北海道付属島嶼(とうしょ)復帰懇請委員会」をつくり、自ら会長に就く。8月に上京し、GHQに四島の「日本復帰」を直訴した。委員会の記録によると、高官から「(マッカーサー)元帥閣下に奉呈して善処する」との返事を得た。

■首相に宛て電報

 しかし事態は動かない。安藤は公職追放となり町長を辞職。委員会の会長も一時退いた。その間も水面下で陳情や署名活動を主導した。

 55年1月、ソ連が歯舞、色丹の2島返還を日本政府に申し入れたとの報道に接すると、安藤は首相鳩山一郎に宛てて電報を打った。

 <国後、択捉両島も併せて返還を要求され一切の妥協を排し国際正義に訴え断固としてこの目的を貫徹されんことを熱願してやみません>

 四島返還を求める強い意思が伝わってくる。2カ月後、安藤は69歳で急逝した。上京を繰り返し、過労がたたったと言われている。

 56年10月、日ソ両政府は平和条約締結後に歯舞と色丹の2島を日本に引き渡すことを明記した日ソ共同宣言に署名した。

 その後、行きつ戻りつしながらも領土問題に進展はない。前首相安倍晋三は日ソ共同宣言を基礎に交渉を加速させようとしたが、頓挫した。後継首相の菅義偉は「次の世代に先送りせず、終止符を打たねばならない」と述べるにとどまる。

 安藤の訴えはいまだかなわぬまま、元島民ら多くの人たちに引き継がれている。

                                                                   ◇

 安藤石典が最初の陳情書を提出して75年。毎年12月1日には東京で領土返還を求めるデモ行進が行われるが、今年は新型コロナウイルスの影響で中止し、パネル展の開催などにとどめる。安藤の業績を振り返り、返還運動の歩みをたどる。

<ことば>安藤石典(あんどう・いしすけ) 1886年(明治19年)、鳥取県生まれ。北海道で警察官になり、1930年(昭和5年)に根室町長に就任。道議などをへて43年に再び根室町長に就き、終戦を迎える。46年に北海道付属島嶼復帰懇請委員会の会長に就任。公職追放で同年に町長を退き、47年に会長職も辞任したが、51年に追放解除により会長に復帰した。缶詰工場も営んだ。55年3月、69歳で急逝した。

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