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根室色丹会 開拓の功労者・小林八十吉翁の功績を伝える冊子を作成

 北方四島色丹島出身者で組織する根室色丹会(木根繁会長)が、明治、大正、昭和と3つの時代をまたいで、島の開発・発展に尽力した先達小林八十吉翁の功績を後世に伝えようと小冊子を作成した。以下、「色丹開拓の偉大な恩人 小林八十吉伝」の一部を紹介する。

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小林八十吉の生涯と功績

 八十吉は、明治6年(1871年)4月(日不明)千葉県香取郡佐原村(現佐原市)の素封家小林善七の次男として生まれ、幼い頃から学問を好み、並木栗水について和漢を学び、塾頭をしたと言われている。東京の法学院で政治・経済を2年間学び、退学し佐原に帰り、自由党に入って同盟義会を組織し、青年等を指導した。剛健・豪放な性格であったという。32歳の時、兄の種吉が鉱山事業で失敗し、苦境に立った。

 明治37年(1904年)4月、故郷を出て、北海道各地の実況を半年間見て回り、色丹島の開発の必要性を考え、色丹島に渡る。当時、色丹王と言われた実力者荒井茂平治に見込まれ、娘婿として、斜古丹で雑貨店・漁業を営む。選ばれて村総代を務める等村政・漁業・教育・消防・衛生等の発展に努力した。色丹島開発初期の功労者、荒井茂平治の多くの事業を常に補佐した功績は偉大である。

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 大正元年(1912年)露領沿岸の測量に行く浪速艦(軍艦、艦長は長原静吾)寄港の際には、調査に全面協力し、尊敬していた東郷元帥の直筆額「奮励努力」を寄贈された。又伊集院大将の斜古丹湾・松ケ浜測量にも全面協力した。その他、日本遠洋漁業会社のシブトリ丸や、仙台の富豪白石廣造のラッコ船の台風による遭難の際には、八十吉自ら村民を激励して、救出活動に尽力し、両社から謝金・感謝状を受けた。

 大正2年(1913年)色丹島に工場を創設した土佐捕鯨会社と東洋捕鯨会社の経営上の確執のため、色丹島民の権利が侵害された時、上京し、直接、時の大隈総理大臣と面談する等して、中央政府の政治力を借りて両会社の確執を解消した。そして円満に色丹島での事業に着手させ、島民の利益を守り、同島の公益は大きく増した。

 八十吉は、詩文の才も秀でて、又、「栗村」と号して書をよくした。昭和10年(1935年)8月に没す。

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 昭和16年の秋、斜古丹神社の東側に顕彰碑「小林八十吉翁之碑」が建立された。碑文の文字は、当時の戸塚九一郎北海道長官の手による。現在はロシアの実行支配のもと、現存していない。旧根室町朝日町1丁目にも住宅があったが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失した。

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写真集「千の島を巡る 1946年のクリル探検(原題:По Земле Тысячи островов. Курильская экспедиция 1946 года)」の斜古丹墓地の写真の中に「小林家之墓」が写っている。ソ連占領後の1946年の撮影で、千島アイヌの十字架の墓が多数見える。

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