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『逃げるべきか、とどまるべきか』--若き支庁長の決断

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 あるいは、この人が北方領土問題を強く意識して、行政としての対処方針を示した最初の人かもしれない。

 ソ連軍が北方四島に上陸、占領した時の根室支庁長・徳永俊夫さんである。

 「島民ニ告グ」という支庁長告示の中で「領土関係は未だ正式決定を見ず、従って壮者は出来得る限り現地に踏止まり一致協力各自の財産を管守し、今暫くの健闘を切望す」と書いた人だ。

 1945年8月1日の北海道新聞にこんな記事が載っている。

現地行政 決戦態勢 支庁の人的組織強化

「道庁では現地行政機構の徹底強化を図ることになり 三十一日付をもって 四支庁長、本庁四課長との交流人事を始め、総数百二十余名に上る大量の人員を各支庁に転出せしむる異動を発令した。支庁長を書記官級の大物にせんとの構想に基づき、支庁長の入替へが行はれた。しかして今次の主要人事中注目されることは道北東の重要地域となっている根室支庁に気鋭の徳永木船課長を配した」

 期待を背負って赴任した若き支庁長は、どんな気持ちでこの告示を書いたのだろう--。

 徳永さんの証言として唯一残っているのは、読売新聞北海道支社が1972年に連載した「もう一つの領土」という企画の中で語られたものだ。翌年「忍従の海」と題して書籍化されている。

 「北海道庁経済第二部木船課長から根室支庁長を命ぜられ、赴任したのが終戦直前の20年7月31日。根室の町は7月14日の米艦載機の襲来で8割が焦土と化し、住民はどん底の生活をしていた。わたしの任務もまず町の復興で、吹き飛んだ支庁長官舎を建て直すため、30万円を渡されていたが、被災した支庁職員の住宅費に回したほど。そんな状況だったから、8月15日も、札幌の本庁(道庁)に救援策のかけ合いに来ていた。終戦玉音放送を聞き、夜行列車で飛んで帰った。アメリカが来るのではないか。いや、ソ連だ--町民の間ではこんなうわさがもっぱら。そうこうするうち、8月28日、ついにソ連択捉島に上陸、南下を続けて9月3日には歯舞群島まで占領してしまった。もしや根室にも--と不安があったが、根室の町には、9月15日からアメリカ軍一個小隊が駐とんするようになった。

 敗戦という事態で島の人たちは動揺こそしていたが、ソ連が進駐してくるまでは、島とが自由に往復できたため、それほど深刻なものではなかった。しかし、ソ連が進駐し、けん銃の威かく発射や金品の略奪がはじまると、島民は恐怖と不安で虚脱状態に陥ってしまった。『逃げるべきか、とどまるべきか』。わたしのもとには、各島の役場などから問い合わせが相ついだ。そのうちに、根室港の船入りたまりには深夜の海を脱出してきた島民がひしめき出した。本庁に行政方針を何度問い合わせてもなしのつぶて。毎日が身を切る思い。それなら私が決断しなければと、考えたのです。

 カイロ宣言ヤルタ協定ポツダム宣言を繰り返し読み、さらに支庁の倉庫をあさり、千島の歴史書や書類を捜し出しては読んだ。三日三晩寝ませんでした。

 ポツダム宣言には、連合軍は自己の利得、国土の拡張は求めない。しかし、侵略した土地からは日本を駆逐する、とある。歯舞、色丹は昔から根室管内、国後、択捉は、1855年の日露通行条約で得撫島以北をソ連領と決めている。それが1875年の樺太千島交換条約で得撫島以北を交換したのだから、国後、択捉は侵略した土地ではなく、もともと日本固有の領土だ。それなら、その足跡を証拠づける意味でも、島民は島に踏みとどまるべきだと思った。その『島民ニ告グ』は、血を吐く思いでつづり、ガリ版刷りにし特攻船に託したのです」