北方領土の話題と最新事情

北方領土の今を伝えるニュースや島の最新事情などを紹介しています。

「脱出すべきか、とどまるべきか」四島の不法占拠拡大「日本固有の領土。その足跡を証拠づける」

産経新聞2020年8月28日 「領土の記憶(2)」

脱出すべきか、とどまるべきか 四島の不法占拠拡大

f:id:moto-tomin2sei:20200829090359j:plain

  「島民各位に告ぐ」という一通の文書がある。

 

 《領土関係は未(いま)だ正式決定を見ず 従って壮者(そうしゃ)は出来得(できう)る限り現地に踏止(ふみとど)まり 一致協力各自の財産を管守し 今暫(しばら)くの健闘を切望す》

 

「日本固有の領土。その足跡を証拠づける」

 ソ連軍は昭和20(1945)年8月28日、北方領土の択捉(えとろふ)島に上陸してから国後(くなしり)、色丹(しこたん)両島と歯舞(はぼまい)群島を相次ぎ不法占拠した。当時の北海道・根室港には脱出してきた大勢の島民がひしめいていたという。

 文書は同年9月付。当時の根室支庁(現根室振興局)長、徳永俊夫氏が4島の島民に向けて布告したものとみられ、結束してソ連軍から島を守るよう呼びかけている。同時に高齢者や女性、病人は避難するよう促してもいた。

  徳永氏は『忍従の海~北方領土の28年』(読売新聞社)の中で「『逃げるべきか、とどまるべきか』わたしのもとには、各島の役場などから問い合わせが相ついだ」と振り返っている。

 わが国固有の領土からなぜ日本人が逃げ出さなければいけないのか-。徳永氏は布告を出した理由を「もともと日本固有の領土である。その足跡を証拠づける意味でも、島民は島に踏みとどまるべきだと思った」と説明した=注釈〔1〕。

 

怖くて島にいられない。脱出を決心

 ソ連軍は北方四島の学校や郵便局など公共施設を占拠し、島民の行動を制限した。多くの島民が不安と緊張から逃れ、安全を求め島を脱出した。内閣府によると、当時、北方四島に住んでいた計約1万7000人=注釈〔2〕=のうち、およそ半数が自ら島を離れたという。

f:id:moto-tomin2sei:20200829090622j:plain 

宮谷内亮一さん

 国後島留夜別(るよべつ)村出身の宮谷内(みやうち)亮一さん(77)も脱出組の一人だ。当時3歳くらいで、ほとんど記憶はないが、のちに父親から脱出の様子を聞かされた。

 昭和20年12月15日夜。霧の濃い時間を見計らって、留夜別村の港から家族9人で漁船に乗って根室を目指した。貯金通帳や土地売買契約書など大切な書類だけをトランクに入れて持ち出した。すぐに島に戻れると思っていたから、家財道具はそのまま置いてきた。

  「私は荷物と一緒に船の底に入れられ、漁で使う網をかけられたようです。油臭かったのと、何でこんなに蹴っ飛ばされるのかというくらい蹴られたのは覚えている。後で聞くと、私が大声で泣いたので、泣きやませようと蹴っ飛ばしたらしいです」

 巡回するソ連兵に見つかり、機関銃で撃たれた島民がいると聞いた。ソ連兵の略奪を注意した人がその場で射殺されたという噂もあったという。「死傷者がでる事件が結構あったみたいで、怖くて島にいられないと脱出を決心したと聞きました」

 

女性は屋根裏や物置に隠れ姿消す

 《根室支庁の公文書『千島及●(=離のふるとりを取る)島(およびりとう)ソ連軍進駐状況綴(つづり)』には当時の国後島の状況について「各民家ヲ荒シ金品等ヲ掠奪(りゃくだつ) 更(さら)ニ婦女子ニ対シ暴行ニ等シキ態度ニ出デタルモノ若干アリ 当時ハ戦々兢々(せんせんきょうきょう) 民心ノ不安動揺 甚(はなは)ダシキモノアリタリ」と記されている》

 f:id:moto-tomin2sei:20200829090706j:plain

河田弘登志さん

 歯舞群島も同じだった。島民は治安の悪化におびえる日々を送った。群島の一つ、多楽(たらく)島に住んでいた河田弘登志さん(85)は「この島には若い女性がいないのかというほど、女性は屋根裏や物置、防空壕(ごう)などに隠れて姿を消した」と語る。

  「イカ釣りの最中、空砲だったが威嚇射撃されることもあった。怖くて島を出る島民も増えていった」。多楽島には約1500人が住んでいたが、1000人以上が避難したという。

 手こぎ船で移動中にしけに遭って浸水し、荷物を海に捨てて命からがらたどり着いた人もいれば、ソ連軍の監視をかいくぐろうと迂回(うかい)したため遭難した人もいた。いまだに行方が分からない島民もいる。

 

 《「現住ノ島民ハ安心シテソ軍ノ中ニ留ルモノ一名モナク 出来得ルナラ一刻モ早ク避難離島ノ希望ヲ持ツモ ソ軍ノ駐屯部隊ハソノ監視厳(げん)ニシテ脱走出来ザル者 又(また)ハ船ナクシテ脱走ノ方法ナキ者等大部分ニシテ ソ軍上陸後不安ノタメ生業(なりわい)モ出来ズ落付タル生活ヲ為(な)ス日ナシ…若キ婦女子ノ大部分ハ既ニ脱走、現在迄(まで)生命ヲ賭(と)シテ脱走シタル島民ハ 逐次起リシ…」(千島及●(=離のふるとりを取る)島ソ連軍進駐状況綴)》

 

 一方的に占領政策を進めるソ連軍から島を守らなければいけないという強い思いを持ちながら、恐怖や不安と戦い続ける島民たち。逃げ場を失う中で、まさに命懸けの「脱出」が繰り返された。(編集委員 宮本雅史

 

■今回の証言者

宮谷内亮一さん 昭和18年1月、国後島留夜別村生まれ。20年12月に一家9人で島を脱出。21年、一家は「奥尻島開拓移住団」として北海道・奥尻島に移り住む。現在、千島歯舞諸島居住者連盟根室支部長として返還運動に携わっている。北海道根室市在住。

河田弘登志さん 昭和9年9月、歯舞群島多楽島生まれ。20年秋に弟と叔父らの船で北海道・根室に脱出。島に残った両親や祖父らと再会したのは2年後だった。現在、千島歯舞諸島居住者連盟副理事長。北海道根室市在住。

 f:id:moto-tomin2sei:20200829090805j:plain

歯舞群島・勇留(ゆり)島での金比羅神社祭(千島歯舞諸島居住者連盟提供)

 

注釈〔1〕 寛永12(1635)年に松前藩が北海道と千島、樺太などの調査を実施。正保元(1644)年に江戸幕府が作成した「正保御国絵図」(日本地図)には「くなしり」「えとほろ」などの島名が記されている。外国人が定住した事実はなく、日本人が開拓してきた日本の土地だ。

注釈〔2〕 昭和20年8月の終戦時、国後島は7364人(1327世帯)が住んでいた。歯舞群島が5281人(852世帯)、択捉島は3608人(739世帯)、色丹島は1038人(206世帯)が暮らしていた(内閣府ホームページから)。