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『国後島・植古丹~母のふるさとを訪ねて』

 

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令和元年度自由訪問実績報告用に書いた原稿です。

 

国後島・植古丹~母のふるさとを訪ねて』              

 2019年(令和元年)度の第3回自由訪問に妻と共に参加し、母のふるさと国後島の植沖地区をはじめラシコマンベツ、植内を訪ねました。自由訪問としては2011年9月以来8年ぶりです。

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    訪問団は池田英造団長以下、元島民・後継者など38人と同行者11人の49人。今回は友好の家に宿泊です。私たちの足はロシアのウラル製6輪駆動オフロード型バストラックです。海岸線を先導する日本製の4輪駆動車が砂とコンブに絡み取られて立ち往生する中、無敵のウラルは砂地も岩場も何のその。海沿いの道なき道を突き進み、川をザブザブ横断し、居住地跡や墓地まで運んでくれました。

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  古釜布を北へ。市街地を抜けるとすぐに道路の舗装は途切れ、土埃が舞う凸凹道です。左手に近布内、右手に観光名所のローソク岩が見えてきます。最近、賃貸アパート8棟が完成した近布内は古釜布のベッドタウンとして開発が進んでいます。キナカイの海岸では盛んに砂や砂利の採取が行われています。古釜布と泊を結ぶ幹線道路も東沸あたりまでアスファルト舗装が完成したそうですが、建設ラッシュは島の自然や景観にも影響を与えているようです。

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                           左の写真が現在の姿です

 

 キナカイから植古丹にかけて、戦前に日本が敷設した木製の電信柱が十数本確認できました。頭頂部に金属製のキャップを被っているのでわかります。電信線は根室市に現存する海底ケーブル陸揚庫を起点に国後島から択捉島の北端・蘂取村までつながっていて、漁業や暮らしを支えていました。

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 植沖墓地の標柱はオキツウス川の河口に、草木に埋もれるように建っていました。2011年の訪問時に建て替えたものですが、無残にも散弾銃が2発撃ちこまれていました。ロシア人ハンターは「試し打ちでもしたのではないか」と話していました。

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 全員でお参りをした後、池田団長さんを先頭に植古丹関係者8人、同行者3人、ロシア人ハンター2人で、本当の墓地の探索に出発しました。川を遡り、背丈ほどもある雑草が生い茂る急な斜面をよじ登り、林を抜けると、笹に覆われた平地に出ます。笹の茎に足を取られながら、標柱を探しました。倒れていた標柱を発見したのは、ハンターでした。標柱を立て直し、周辺の草刈りをして、野花を手向けて全員で手を合わせました。池田団長は安堵の表情を浮かべていました。帰り道は、落差数メートルのV字に切れ込んだ急斜面に遭遇し、滑り落ちないよう笹の茎につかまりながら下り、背丈を超える巨大なフキが密集する沢地を突破して無事帰還しました。

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 母と幼なじみの池田団長さんは86歳になりました。植沖地区の生き字引です。今回の訪問でも、母が住んでいた家の跡を教えてもらいました。母が生まれた後に部屋数6つもある家を新築し、祖父母や母の兄夫婦ら3世帯13人が暮らしていました。それから74年たって、家の跡には草が生い茂っているだけでした。母から「家の前の海には、トッカリがたくさんいた」と聞いたことがありましたが、池田団長から、住居跡の目印として忘れないよう言われた「トッカリ岩」がその場所でした。アザラシこそ確認できませんでしたが、「トッカリ岩」は昔と変わらない姿で海面から顔を出していました。

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